blog
一昨日、昨日と、新しい試みとして小説を書き始めた。 8年ほど前に連載した「僕のGlory Days」を、今の自分が“リミックス”しているような感覚だ。
あの頃の言葉の粒や温度が、ページを開くたび静かに蘇ってくる。 まるで、過去の僕が未来の僕へ放った“声”のように。
人生を一度言語化しておく作業は、思っていた以上に長く効き続き、いま振り返ると“宝探し”みたいにヒントを置いてくれている。
ただ、ご存じのように、あの連載は2012年あたりで筆が止まっている。 理由はシンプルだ。「書けないこと」があまりにも多かったから。
本当のことを書けば角が立つ。 かといって、それを避けて書けば、読む価値のない薄い文章になる――
“書かない自由”と“書く覚悟”のあいだで、僕は長い時間、立ち止まっていた。だから今回、僕は「フィクション」という武器を選んだ。 “自伝的”というやつだ。
57歳を目前にした僕を、未来の僕がいつか「よくやった」と讃えてくれるように。 そんな願いを、少しだけ物語に託している。
フィクションを纏うことで、むしろ事実ではない「真実」に手が届く。 物語のほうが、現実よりも正直に痛みを語ることがある。そのことに気づいた今、僕は心底ワクワクしている。 これからの数ヶ月、まだ見ぬ自分に出会う気がしている。
この「B-Side Melody」(略して「Bメロ」)と、しばらく本気で向き合うつもりだ。 この歳になってなお、“初期衝動”の火が再び胸の奥で燃え始めた。 音楽で言えば、新しい楽器を手にして、気づけば朝まで音を鳴らしてしまうようなあの感じに近い。
同時に、長く温めていた短編のアイデアにも手をつけている。 新人賞への応募を考えているため公開はできない。けれど、入賞すれば雑誌に載るし、落選したらまたみんなに読んでもらえる。
どちらに転んでも、書いた作品は血肉になる。
何より大切なのは、書き切ることだ。 文章がうまいとか下手とか、そんなことはどうでもいい。 向き合った時間だけが作品の厚みになる。その実感が、今の僕には確かにある。
文章に関して、僕は完全に素人だ。 学校の国語の成績なんて、ひどいものだった。 でも「僕のGlory Days」を書いた時、気づいたんだ。うまく書く必要なんてない。 ただ、おもしろいものを書けばいい。
音楽と同じだ。テクニックよりもグルーヴ。正しさよりも歌心。 誰も書かないものを、誰も見ていない視点で。それでも誰かに届くものを書きたい。
「B-Side Melody」は、渾身の作品を今週もう一本アップしたら、来週からはメンバー限定での公開に切り替えるつもりだ。 ここから先は、もっと深いところへ潜ることになるだろう。 だからこそ、本当に読んでほしい人にだけ届けたい。
成瀬英樹が、命を削って生み出す“作品”だ。 タダで読ませるわけには、いかないんだ。
B-Side Melody
Track 2 1986年のJumpin" Jack Flash
ザ・ローリング・ストーンズ。
この名前を口にするだけで、僕は温かい毛布に包まれたような、あるいは完璧に調合されたギムレットを一口飲んだような、幸福な気持ちになれる。The Rolling Stones。
中学二年の頃、僕はビートルズを聴きあさり、図書館にある「ビートルズ」の文字が入った本という本を片っ端から読破した。そこには決まって、ライバルとしてストーンズのことが書かれていた。曰く、ビートルズは清潔なお坊ちゃんで、ストーンズは手のつけられない不良なんだと。(本当はそのイメージはまるで逆で、ストーンズの方が中流階級のいいとこの子たちで、ビートルズの方が労働者階級の成り上がりだったことを、のちに僕は知るんだけれどね。世の中のイメージなんて、だいたいがそんなものだ)
中三の一年間、僕はストーンズのレコードだけを買うという奇妙な誓いを立てた。少ない小遣いをやりくりして、アルバムをコンプリートしようとしたんだ。ラッキーなことに、当時のストーンズは何度目かの黄金期を迎えていて、『Start Me Up』のヒットも記憶に新しい頃だった。僕は彼らの音楽の虜になった。
最初に驚いたのは、ボーカルのミック・ジャガーがライブでは「まともに歌わない」ってことだ。スタジオ盤のあの素晴らしいメロディを、ミックはステージ上でズタズタに引き裂き、原型をとどめないほどフェイクして歌う。(もしMr.Childrenが『innocent world』をあんな風に崩して歌ったら、事務所の電話回線はパンクしただろう)
でも、ミックのそのスタイルを理解してからは、そこが魅力なんだと思えるようになった。誰に文句を言われる筋合いはない。だって、彼らが自分たちで作った歌なんだから。自分の庭の芝生をどう刈ろうが、隣人に指図される覚えはないのと同じだ。
そして僕は何より、ギタリストのキース・リチャーズに心から憧れた。リズム・ギターのかっこよさ、とでも言うのかな。あの佇まいは、ほとんど反則に近い。物理法則を無視して立っているみたいだ。僕はとにかく夢中だった。
長いキャリアを持つ彼らの音楽が一番芳醇だったのは、1968年から70年代の中期までだ。特に『Jumping Jack Flash』と『Honky Tonk Women』は、大谷翔平の場外ホームランにも似た、圧倒的で理不尽なほどの痛快さを持っている。ロックンロールの巨大な塊が、重力を無視してどこまでもかっ飛んでいくイメージだ。いつ聴いてもね。
僕が「The Riot」というバンドに加入したきっかけも、この『Jumping Jack Flash』だった。 リーダーでギタリストのカジワラが、僕がどこかのセッションでこの曲を歌っているのを見て、ボーカリストとして目をつけてくれていたらしい。まあ、あの頃の神戸でこの曲を歌わせたら、僕は高校生の中ではいい線いってたはずだ。何と言っても、聴いた回数だけは、税務署の職員が伝票をめくる回数よりも多かったはずだから。
The Riotは元々、聖洋学院の二人――ボーカルのカモダと、ギターのカジワラが中心になって、ARBなんかを演っていたビート・バンドだった。カジワラはエディ・ヴァン・ヘイレンに似た人懐っこい笑顔を持つナイスガイで、フレットを自分で彫刻刀で削ったストラトキャスターの使い手だった(正気の沙汰とは思えないが、音は悪くなかった)。ボーカルのカモダは、下手すると石橋凌さんよりも声量があったんじゃないかというくらいの、破壊的なシンガーだったよ。
だがカモダは、高三になる前にThe Riotを抜け、聖洋学院も退学してしまった。「音楽でプロになる」と言い残して、同じ17歳のメンバーを集めて「The Standers」というバンドを組み、神戸のライブ・ハウスに出演するようになったんだ。カモダはギターなど弾けなかったはずだが、ローンで買ったと言う「リッケンバッカー330」をかき鳴らして、シャウトしていた。実にパンクだった。1986年だから、まだブルーハーツもジュンスカもデビューしてなかったけど、すでにThe Standersはそんな音を出していたんだ。時代の方が彼に追いついていなかったのかもしれない。
そんなカモダの後釜として、僕が誘われたわけだ。正直、戸惑ったよ。僕はボーカル専門なんてやったことがなかったからね。だって、僕はキース・リチャーズになりたいんだぜ? フロントマンの横で、斜に構えてクールにギターを弾くことが何よりかっこいいと思ってたんだ。それに相手はあの聖洋学院のThe Riotだ。僕とショウが一番意識していたバンドだったから、なおさらね。
聖洋学院というのは、高等部でもバンドのレベルが異常に高くてね。文化祭に出るだけでも、30組ほどのエントリーの中から厳しいオーディションを勝ち抜かなきゃならない。ラクダが針の穴を通る方がまだ簡単かもしれない、というくらいの狭き門だ。
The Riotは、彼らが高二の頃に上級生を蹴落として、文化祭のメインイベント「後夜祭」に出演することになっていた。ところが、カモダがナーバスになって突然どこかに消えてしまい、結局パーになったんだ。悪い冗談みたいな話だろ? だからこそ、カジワラは高三での「後夜祭」出演に、並々ならぬ執念を燃やしていたってわけさ。
僕にしたって、ショウと別れてバンド浪人中だったから、カジワラに呼び出されて「ボーカルをやってくれ」と頼まれた時、まあ断る理由はなかった。僕にはその頃、すでに1ダースくらいの自作曲があった。どれも自信作だったよ。それをThe Riotとして演奏してくれるって言うんだ。ARBを数曲歌う必要があったけど、僕だって石橋凌さんの大ファンだったから、歌うことにやぶさかじゃなかったんだよね。
聖洋学院の学園祭には、出演バンドメンバーの四分の一までは校外の人間を入れてもいいというルールがあった。四人編成のバンドなら、一人までは僕みたいな部外者でも構わないってことだ。僕のためにあつらえたような抜け道だ。そして、そのオーディションで三位までに入れば、高校生活最後の一大イベント、後夜祭のステージに立てる。聖洋の連中にとっては、それがすべてだったんだ。
そんなわけで、僕はThe Riotの一員になった。僕ら、一位を獲るために、もうめちゃくちゃ練習したさ。僕は家が明石だったから、毎回西宮まで通い詰めてね。The Riotのメンバーは優秀だった。ドラムのマー坊と呼ばれる男は、子供の頃からピアノの英才教育を受けているようなやつなんだけど、実にビートの効いたご機嫌なドラムを叩く。ベースのセイジは心優しき大男で、体格に見合った野太い音が特徴のベーシスト。そしてカジワラのギターには独特の粘り気があって、もしロビー・ロバートソンが間違ってビート・ロック・バンドに加入してしまったらこんな感じだろうか、と思わせる音を出した。
そこに僕。
初めてのセンターマイク。ギター&ボーカルとして、フロントマンとして立つステージ。しかも、勝負に勝たなきゃいけない。自信? もちろんあったさ。
彼らとのリハーサルを重ねる中で、喉が強くなっていく気がしたし、小さな部屋でショウと作っていたデモテープから飛び出して、僕の自作曲がリアルなロックンロールに変わっていくのが最高にご機嫌な体験だった。何度も同じ歌を歌っていると、メロディをライブ用にダイレクトに伝わる形へ変更したり、遊びでフェイクを入れたりもする。もちろん、全部、ミック・ジャガーの真似だよ。うまく行っているのかどうかはともかくとして、気分だけはロンドンのハイドパークにいたわけだ。
結果? 一位を獲っちまったんだ。 僕たち四人、あまりにも嬉しくて、図体のデカい男たちが人目も憚らず抱き合って泣いたよ。溶けたアイスクリームみたいにぐしゃぐしゃになってね。あの時のことは忘れられない。
後夜祭の大トリでThe Riotは四十分くらいのステージをやった。ARBの曲が二曲と、カジワラの曲が一つ。あとは僕の曲を六曲くらいやったんだ。
盛り上がりは尋常じゃなかったよ。公立高の文化祭とはわけが違う。これが私立名門校の本気のイベントかと度肝を抜かれた。広い講堂にゆうに1000人以上――いや、もっといたかな――大勢の若者が熱狂していた。僕の曲なんか初めて聴くはずだったのにさ。そう、聖洋学院の連中にとっては、これが高校生活最後のビッグなイベントなんだ。
その後夜祭を最後に、The Riotは解散した。最初からそういう約束だったんだよ。ひと夏の、ささやかな革命だったってわけだ。
でも僕にとっては、これが終わりじゃなくて始まりだったんだ。「俺は行ける」って完全に勘違いしたんだ。あの後夜祭に誘われてなかったら、プロになろうなんて考えなかったはずさ。運命ってやつだよ。
僕は、この聖洋学院の人脈を集めて新しいバンドを組んで、まずは地元神戸で、一旗上げてやろうと企んだんだ。
1984年。僕は海沿いの街、兵庫県明石市の高校に入学した。 教室の窓から海が見えることと、伝統だけが自慢の公立高校だ。
僕がアコースティック・ギターを手にしたのは中学一年の時で、ビートルズの『抱きしめたい』を聴いて音楽で生きていくと決めたのが中学二年、「ミュージック・ライフ」の「売ります・買います」欄で安物のエレクトリック・ギターを買ったのは中学三年の時だった。受験勉強なんてこれっぽっちも興味がなかったから、そのぶん時間を惜しむようにギターを弾く僕を見て、両親は本気で心配していたはず。
そして高校に入ればすぐにバンドを組んで、派手なスポットライトを浴びるものだと、僕は信じて疑わなかった。本気でそう思ってた。
だけど、現実は僕の予想とはまるで違う形をしてたんだ。時代はヘヴィメタルの全盛期だったからね。同級生で楽器が弾ける連中はみな、ヘヴィメタに夢中だった。でも笑っちゃうのは、うちが厳格な公立高校だってことでね。髪を伸ばすなんて許されるわけがない。みんな耳が出るくらいに短く刈り込まれてる。それなのに、連中は脳内ロングヘアのロックスター気取りで、教室の隅で激しく頭を振ってるんだ。丸刈りやスポーツ刈りの頭で、エア・ギターをかき鳴らしながらね。まったく、あれは音楽っていうより、奇妙なスポーツに近い光景だったな。
一方、僕は違ってた。僕は中学時代にビートルズやストーンズ、あるいはボブ・ディランの洗礼を受けてたし、アズテック・カメラやスタイル・カウンシルといった英国の新しいロックに参ってたんだ。右も左もメタル信者ばかりの教室で「スタカンをやろう」なんて提案するのは、ステーキハウスで冷奴を注文するようなもんだよ。僕は、その場所において完全に浮いた存在だったってわけさ。
そんな時期に、僕はショウと出会った。彼は山の手にある私立の名門校、聖洋学院に通っていた。明石の中学からそこを受験し、難関を突破したばかりだった。 ショウは僕にとって、別の種類の生き物みたいに見えた。聖洋学院の生徒たちは自由でおおらかで、通学も私服だった。おまけにリッチな家庭の子が多くてさ、高校生の分際で生意気にも高価な楽器を所有してたりするんだよ。そして認めるのは癪だけど、演奏の技術も高かったんだよな。
ショウは歌がうまかった。そして、ビートルズをがむしゃらに愛していた。中学の頃は吹奏楽部でベースを担当していたショウは、もちろんポール・マッカートニーの大ファンだった。僕はジョン・レノン原理主義者だったから、一緒に何かやるにはいいコンビだと思ったんだ。
彼の家は、明石川のそばで小さな駄菓子屋を営んでた。店先には色のどぎついガムや、粉っぽいスナック菓子が並んでて、いつも近所の子供たちが小銭を握りしめて集まってくる。僕も学校が終わると、その駄菓子屋の奥にあるショウの部屋に入り浸った。 六畳ほどの彼の部屋は、僕たちの聖域だった。そこで、レコードが擦り切れるまで聴いたり、ギターを弾いたり、とりとめのない話をした。世界がどうなってるかとか、女の子の心の中がどうなってるかとか、そういう答えの出ない話さ。
ショウの母親は、僕のことを快く思ってなかったみたいだ。 僕が店先を通って奥の部屋へ向かおうとすると、彼女が棚を拭く手がぴたりと止まるのが気配でわかる。まるで伝染病の媒介者でも見るみたいな背中さ。「あの公立の子と付き合うと、ろくなことにならへん」。直接言われたわけじゃないけど、止まったままの手がそう語ってたよ。大事な聖洋学院の息子が、どこの馬の骨とも知れない男にそそのかされて、悪い道へ引きずり込まれていく。彼女にはそう見えてたんだろうね。僕はその視線を感じるたびに、自分が薄汚れた異物になったような気がしたんだ。
ある雨の午後、僕たちは部屋でビートルズの『ラバー・ソウル』を聴いてた。窓の外では雨が川面を叩いてて、湿った風が古い畳の匂いを運んでくるような日だった。レコードはB面に進んで、『In My Life』が流れる。ジョン・レノンのノスタルジックな歌声が部屋を満たしていく。そして曲の最後、あの儚く美しいピアノの間奏が終わって、エンディングに向かう瞬間さ。ショウはそこに合わせて、完璧なファルセットで声を重ねた。僕は息を呑んだよ。それはレコードから流れる音と寸分違わず、いや、それ以上に透明で、まるでガラス細工みたいに繊細な響きを持ってたんだから。
「どうやるんだ?」 僕は思わず尋ねた。「その高い声、どうやったらそんなに綺麗に出るんだよ」
ショウは少し照れくさそうに笑って、自分の喉元を指差した。「力んだらあかん。喉の奥を開いて、頭のてっぺんから声抜くイメージや」。彼は僕に向かって、何度もそのコツを教えてくれた。僕たちが二人で、男のくせに高い裏声を張り上げてる光景なんて、店番をしてるあの母親からすれば、僕がいよいよ大事な息子をおかしくしちまったとしか思えなかっただろうね。でも、ショウは惜しみなくその技術を僕に授けてくれたんだ。「そう、それや。今の響き、ええで」。ショウは僕がその感覚を掴むと、自分のことみたいに喜んでくれた。
でもさ、僕は同時に、決定的な敗北感も味わってた。僕が必死に筋肉の使い方を意識してようやく出す音を、ショウは何の苦もなく、ただ空気を吸うみたいに出してしまえるんだから。「簡単や。音がそこに置いてあるから、それを拾うだけや」。彼はそう言った。彼にとって音楽ってのは、努力して構築するものじゃなくて、空気中に漂ってるものを捕まえる行為に過ぎなかったんだ。
愚かな僕もそろそろ悟らざるを得ないじゃないか。ギタリストとしての指の速さじゃ、ヘヴィメタルの連中には敵わない。歌の才能じゃ、ショウには勝てない。ならば、曲作りだ。そこであれば、勝機はあるかもしれないって思ってさ。だから僕は貪るように音楽を聴いて、コード進行を外科医みたいに解剖して、曲作りの方程式を探り当てようとした。
だけどさ、僕の書いた曲をショウが歌うと、何かが違ってたんだ。どこもしっくりこないんだよ。まるでサイズの合わない服を無理やり着せてるみたいな、奇妙な違和感があった。僕は気づいたんだ。歌唱技術がどうであれ、自分で作った歌は、自分自身の声で歌われるべきなんだって。たとえそれが、ショウみたいな天使の歌声じゃなくてもさ。
「お前はな、ちょっと考えすぎやねん。もっと気持ちよう歌うたらええのに」
ショウはかつてそう言った。その言葉に悪気がないことを、僕は知ってたよ。だからこそ、その言葉は鋭利な刃物になって僕のプライドを切り裂いたんだ。 ショウとビートルズを歌った時間は楽しかった。彼に教わったファルセットの出し方は、僕の喉に確かに残ってたしね。ただ、彼はあくまで、ビートルズが好きだった。ビートルズだけが、好きだったんだ。
僕が求めてたのは、心地よいだけの音じゃない。自分の内側にある歪な感情や、言葉にならない叫びをアップ・トゥ・デイトな音楽にすることだったんだ。ビートルズだってそうやってるじゃないか。表層だけ真似てもしょうがないだろって思ったんだよ。
プロを目指すための「本気のバンド」を組む相手として、ショウは適切じゃない。僕たちは、ジョンとポールにはなれなかったんだ。
バンドを失った僕が、あちこちのセッションに顔を出してた頃、かつてのライバルだった聖洋学院のバンドから声がかかったんだ。「ボーカルをやってくれないか?」と。冗談じゃない、と僕は思ったよ。自分は歌が下手なんだから。僕は断ったけど、彼らはどうしてもと食い下がった。「わかった。その代わり条件がある」。僕は言った。「僕のオリジナル曲を演奏してくれるなら、歌ってもいい」。彼らはその条件を受け入れた。
こうして僕は、そのバンドに参加することになったんだ。バンドの名は「The Riot(ザ・ライオット)」。僕のささやかな革命は、1984年のその場所から、静かに始まろうとしてたんだよ。
(続く)
お疲れ様です!!以下メールをすべてのメンバーに送らせていただきましたが、何名の方がアドレスが不備で帰ってきてしまってます。このメールが届いていない方は、アドレスが不備か何かなので、一度ご連絡いただけると幸いです! そして、以下、メールを共有しますので、メールが届いていない方はこちらをご覧になって、ご返信いただけたら幸いです!
限定20名です! ぜひお急ぎの上、ご連絡くださいね☺️
BINGOメンバーの皆さんへ
日頃よりBINGOへの熱いご支援をいただき、本当にありがとうございます! 皆様のおかげで、今年はBINGOにとって大きな飛躍の年となりました。
その感謝の気持ちを込めて、来る12月7日に、ささやかながらオフ会を企画しました。 ビートルズを愛する仲間たちと、今年一番の楽しい時間を共有したいと思います。
題して… 『The Beatles Lovers Only~タイムマシンなんていらないズがやって来る!BEEP! BEEP! BEEP!』
🎸 イベントの趣旨 今回の集まりは、いつものライブハウスでのステージとは一味違います。 楽器やお飲み物が楽しめる落ち着いた空間で、メンバーの演奏(セッション)を間近で楽しみながら、皆さんとゆっくりご歓談いただく「アットホームなパーティー」です。
曲の合間には、ぜひメンバーとビートルズ談義に花を咲かせましょう!
【出演メンバー】 ▼前半(初期曲中心) 成瀬(ジョン役)、キソエムさん(ジョージ役)、北道さん(ポール役) そしてドラムはなんと、The Shakesの伴慶充さんが叩いてくださいます!
▼後半........
今日は特別な音源を公開した。僕のバンドFOUR TRIPSの、2000年の未発表曲『神戸珈琲物語』のAIを使用したカヴァーだ。ボーカルは、当時のデモテープに残っていた「aiちゃん」の声をAIで抽出し、丁寧にエディットして仕上げたものだ。 いわば、ビートルズが新曲『Now and Then』でジョン・レノンの声を蘇らせたのとまったく同じ手法である。
AIだからといって、ボタンひとつで音楽が出来上がるわけではない。
確かに、押せば「それっぽい何か」はすぐ出てくる。だから最初はみんな喜ぶ。そして、驚くほどすぐに飽きる。なぜなら、それだけでは「作品」にはならないからだ。
それでも僕は今、AIという技術に全振りしようと思っている。
テクノロジーの発展は、決して逆行しない。 今はまだ発展途上だ。だから少し触って「なんだ、使えねえや」と投げ出す人も多いだろう。それはそれでいい。あなたがやめてくれれば、ライバルがひとり減るだけの話で、こちらとしては正直ありがたい。
僕は今、AIにしかできないことを見極めるための、大がかりな実験期間にいる。 振り返れば、僕たちはいつだって実験しながら前に進んできたのだ。
僕は13歳からギターを弾き、独学でプロになった。その歴史は、目の前に現れる「新しい技術」との格闘の歴史でもある。
中学生の頃、高価な録音機材なんて買えなかった。 だから、二台のカセットデッキを並べて悪戦苦闘した。一台で録った音を再生しながら、もう一台で別の音を重ねて録音する。いわゆる「ダビング」だ。重ねるたびに音は遠くなり、ぼやけ、劣化していく。 それでも、複数の音が重なり合ったそのカセットテープは、市販のヒット曲よりもずっと愛おしかった。
高校生になり、タスカムのカセット式MTR「ポータワン」を手に入れた時の衝撃は忘れられない。アルバイト代を握りしめて買ったその魔法の箱は、トラックをまとめて空きを作る「ピンポン録音」ができた。 ただし、一度ピンポンしたら、音のバランスはもう二度と戻せない。不可逆の作業だ。 60年代、ビートルズがあの傑作群を4トラックで録っていたことを思えば、当時の僕らがその工程を避けて通れるはずもなかった。
だから僕は、昨今の「カセットテープ復権」の話を聞くたびに、つい言ってしまう。 「冗談じゃない」と。
あの劣化と闘い続けた世代が、心からカセットに戻りたいと思うことなんてない。アナログレコードの温かみとは事情が違うのだ。あのノイズと不便さは、僕らにとって戦場だった。
90年代後半、RolandのハードディスクMTRが登場し、僕らはようやく音質劣化の呪縛から解き放たれた。 デビューが決まり、潮目が変わり、契約が切れる予感が漂う中でも、僕らはその機材にしがみついて曲を作り続けた。Zipディスクにデータを落とし、ドラムのデータをやり取りする。今で言うファイル共有の走りだ。
そして2000年代、PCでのレコーディングが当たり前になった。 波形を目で見て、切って、貼る。パンチイン録音の、あの胃が痛くなるような緊張感は消えた。トラック数は無限になり、ピッチ補正で歌さえ直せるようになった。
そしてついに今、AIが登場した。
音楽を作るという営みは、いつの時代も「与えられた道具をどう使うか」という自分との対話だった。 カセットデッキでも、PCでも、AIでも、その本質は変わらない。道具が便利になったからといって、作る苦しみや喜びが消えるわけではないのだ。
だから僕は、AIを前にして戸惑いながらも、やはり向き合っていく。 それが、ソングライターという生き物の性分だからだ。
先日、あるインタビュー記事を読んで膝を打った。 敬愛する佐野元春さんが、こう発言していたのだ。
「僕が十五歳なら、AI音楽生成アプリを手当たり次第にダウンロードしている」と。
憧れの人と意見が一致したのは、震えるほど嬉しかった。 実は僕も先日、作曲を始めたいという若い人に、こんなアドバイスをしたばかりだったのだ。
「ギターなんて練習しなくていいから、死ぬほど音楽を聴いて、AIで曲を作ったらいいよ」
僕たちがカセットデッキで遊んだように、今の君はAIで遊べばいい。 新しいおもちゃを手にした子供のように、僕たちはまた、音楽の新しい扉を開けようとしている。