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『B-Side Melody 』Track 1「1984年のIn My Life」
成瀬英樹
成瀬英樹
11月25日 9:19

 1984年。僕は海沿いの街、兵庫県明石市の高校に入学した。 教室の窓から海が見えることと、伝統だけが自慢の公立高校だ。
 

 僕がアコースティック・ギターを手にしたのは中学一年の時で、ビートルズの『抱きしめたい』を聴いて音楽で生きていくと決めたのが中学二年、「ミュージック・ライフ」の「売ります・買います」欄で安物のエレクトリック・ギターを買ったのは中学三年の時だった。受験勉強なんてこれっぽっちも興味がなかったから、そのぶん時間を惜しむようにギターを弾く僕を見て、両親は本気で心配していたはず。
 

 そして高校に入ればすぐにバンドを組んで、派手なスポットライトを浴びるものだと、僕は信じて疑わなかった。本気でそう思ってた。
 

 だけど、現実は僕の予想とはまるで違う形をしてたんだ。時代はヘヴィメタルの全盛期だったからね。同級生で楽器が弾ける連中はみな、ヘヴィメタに夢中だった。でも笑っちゃうのは、うちが厳格な公立高校だってことでね。髪を伸ばすなんて許されるわけがない。みんな耳が出るくらいに短く刈り込まれてる。それなのに、連中は脳内ロングヘアのロックスター気取りで、教室の隅で激しく頭を振ってるんだ。丸刈りやスポーツ刈りの頭で、エア・ギターをかき鳴らしながらね。まったく、あれは音楽っていうより、奇妙なスポーツに近い光景だったな。
 

 一方、僕は違ってた。僕は中学時代にビートルズやストーンズ、あるいはボブ・ディランの洗礼を受けてたし、アズテック・カメラやスタイル・カウンシルといった英国の新しいロックに参ってたんだ。右も左もメタル信者ばかりの教室で「スタカンをやろう」なんて提案するのは、ステーキハウスで冷奴を注文するようなもんだよ。僕は、その場所において完全に浮いた存在だったってわけさ。
 

 そんな時期に、僕はショウと出会った。彼は山の手にある私立の名門校、聖洋学院に通っていた。明石の中学からそこを受験し、難関を突破したばかりだった。 ショウは僕にとって、別の種類の生き物みたいに見えた。聖洋学院の生徒たちは自由でおおらかで、通学も私服だった。おまけにリッチな家庭の子が多くてさ、高校生の分際で生意気にも高価な楽器を所有してたりするんだよ。そして認めるのは癪だけど、演奏の技術も高かったんだよな。
 

 ショウは歌がうまかった。そして、ビートルズをがむしゃらに愛していた。中学の頃は吹奏楽部でベースを担当していたショウは、もちろんポール・マッカートニーの大ファンだった。僕はジョン・レノン原理主義者だったから、一緒に何かやるにはいいコンビだと思ったんだ。
 

 彼の家は、明石川のそばで小さな駄菓子屋を営んでた。店先には色のどぎついガムや、粉っぽいスナック菓子が並んでて、いつも近所の子供たちが小銭を握りしめて集まってくる。僕も学校が終わると、その駄菓子屋の奥にあるショウの部屋に入り浸った。 六畳ほどの彼の部屋は、僕たちの聖域だった。そこで、レコードが擦り切れるまで聴いたり、ギターを弾いたり、とりとめのない話をした。世界がどうなってるかとか、女の子の心の中がどうなってるかとか、そういう答えの出ない話さ。
 

 ショウの母親は、僕のことを快く思ってなかったみたいだ。 僕が店先を通って奥の部屋へ向かおうとすると、彼女が棚を拭く手がぴたりと止まるのが気配でわかる。まるで伝染病の媒介者でも見るみたいな背中さ。「あの公立の子と付き合うと、ろくなことにならへん」。直接言われたわけじゃないけど、止まったままの手がそう語ってたよ。大事な聖洋学院の息子が、どこの馬の骨とも知れない男にそそのかされて、悪い道へ引きずり込まれていく。彼女にはそう見えてたんだろうね。僕はその視線を感じるたびに、自分が薄汚れた異物になったような気がしたんだ。
 

 ある雨の午後、僕たちは部屋でビートルズの『ラバー・ソウル』を聴いてた。窓の外では雨が川面を叩いてて、湿った風が古い畳の匂いを運んでくるような日だった。レコードはB面に進んで、『In My Life』が流れる。ジョン・レノンのノスタルジックな歌声が部屋を満たしていく。そして曲の最後、あの儚く美しいピアノの間奏が終わって、エンディングに向かう瞬間さ。ショウはそこに合わせて、完璧なファルセットで声を重ねた。僕は息を呑んだよ。それはレコードから流れる音と寸分違わず、いや、それ以上に透明で、まるでガラス細工みたいに繊細な響きを持ってたんだから。
 

「どうやるんだ?」 僕は思わず尋ねた。「その高い声、どうやったらそんなに綺麗に出るんだよ」
 

 ショウは少し照れくさそうに笑って、自分の喉元を指差した。「力んだらあかん。喉の奥を開いて、頭のてっぺんから声抜くイメージや」。彼は僕に向かって、何度もそのコツを教えてくれた。僕たちが二人で、男のくせに高い裏声を張り上げてる光景なんて、店番をしてるあの母親からすれば、僕がいよいよ大事な息子をおかしくしちまったとしか思えなかっただろうね。でも、ショウは惜しみなくその技術を僕に授けてくれたんだ。「そう、それや。今の響き、ええで」。ショウは僕がその感覚を掴むと、自分のことみたいに喜んでくれた。
 

 でもさ、僕は同時に、決定的な敗北感も味わってた。僕が必死に筋肉の使い方を意識してようやく出す音を、ショウは何の苦もなく、ただ空気を吸うみたいに出してしまえるんだから。「簡単や。音がそこに置いてあるから、それを拾うだけや」。彼はそう言った。彼にとって音楽ってのは、努力して構築するものじゃなくて、空気中に漂ってるものを捕まえる行為に過ぎなかったんだ。
 

 愚かな僕もそろそろ悟らざるを得ないじゃないか。ギタリストとしての指の速さじゃ、ヘヴィメタルの連中には敵わない。歌の才能じゃ、ショウには勝てない。ならば、曲作りだ。そこであれば、勝機はあるかもしれないって思ってさ。だから僕は貪るように音楽を聴いて、コード進行を外科医みたいに解剖して、曲作りの方程式を探り当てようとした。
 

 だけどさ、僕の書いた曲をショウが歌うと、何かが違ってたんだ。どこもしっくりこないんだよ。まるでサイズの合わない服を無理やり着せてるみたいな、奇妙な違和感があった。僕は気づいたんだ。歌唱技術がどうであれ、自分で作った歌は、自分自身の声で歌われるべきなんだって。たとえそれが、ショウみたいな天使の歌声じゃなくてもさ。
 

「お前はな、ちょっと考えすぎやねん。もっと気持ちよう歌うたらええのに」
 

 ショウはかつてそう言った。その言葉に悪気がないことを、僕は知ってたよ。だからこそ、その言葉は鋭利な刃物になって僕のプライドを切り裂いたんだ。 ショウとビートルズを歌った時間は楽しかった。彼に教わったファルセットの出し方は、僕の喉に確かに残ってたしね。ただ、彼はあくまで、ビートルズが好きだった。ビートルズだけが、好きだったんだ。
 

 僕が求めてたのは、心地よいだけの音じゃない。自分の内側にある歪な感情や、言葉にならない叫びをアップ・トゥ・デイトな音楽にすることだったんだ。ビートルズだってそうやってるじゃないか。表層だけ真似てもしょうがないだろって思ったんだよ。

 プロを目指すための「本気のバンド」を組む相手として、ショウは適切じゃない。僕たちは、ジョンとポールにはなれなかったんだ。
 

 バンドを失った僕が、あちこちのセッションに顔を出してた頃、かつてのライバルだった聖洋学院のバンドから声がかかったんだ。「ボーカルをやってくれないか?」と。冗談じゃない、と僕は思ったよ。自分は歌が下手なんだから。僕は断ったけど、彼らはどうしてもと食い下がった。「わかった。その代わり条件がある」。僕は言った。「僕のオリジナル曲を演奏してくれるなら、歌ってもいい」。彼らはその条件を受け入れた。
 

 こうして僕は、そのバンドに参加することになったんだ。バンドの名は「The Riot(ザ・ライオット)」。僕のささやかな革命は、1984年のその場所から、静かに始まろうとしてたんだよ。

(続く)