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B-Side Melody
Track 2 1986年のJumpin" Jack Flash
ザ・ローリング・ストーンズ。
この名前を口にするだけで、僕は温かい毛布に包まれたような、あるいは完璧に調合されたギムレットを一口飲んだような、幸福な気持ちになれる。The Rolling Stones。
中学二年の頃、僕はビートルズを聴きあさり、図書館にある「ビートルズ」の文字が入った本という本を片っ端から読破した。そこには決まって、ライバルとしてストーンズのことが書かれていた。曰く、ビートルズは清潔なお坊ちゃんで、ストーンズは手のつけられない不良なんだと。(本当はそのイメージはまるで逆で、ストーンズの方が中流階級のいいとこの子たちで、ビートルズの方が労働者階級の成り上がりだったことを、のちに僕は知るんだけれどね。世の中のイメージなんて、だいたいがそんなものだ)
中三の一年間、僕はストーンズのレコードだけを買うという奇妙な誓いを立てた。少ない小遣いをやりくりして、アルバムをコンプリートしようとしたんだ。ラッキーなことに、当時のストーンズは何度目かの黄金期を迎えていて、『Start Me Up』のヒットも記憶に新しい頃だった。僕は彼らの音楽の虜になった。
最初に驚いたのは、ボーカルのミック・ジャガーがライブでは「まともに歌わない」ってことだ。スタジオ盤のあの素晴らしいメロディを、ミックはステージ上でズタズタに引き裂き、原型をとどめないほどフェイクして歌う。(もしMr.Childrenが『innocent world』をあんな風に崩して歌ったら、事務所の電話回線はパンクしただろう)
でも、ミックのそのスタイルを理解してからは、そこが魅力なんだと思えるようになった。誰に文句を言われる筋合いはない。だって、彼らが自分たちで作った歌なんだから。自分の庭の芝生をどう刈ろうが、隣人に指図される覚えはないのと同じだ。
そして僕は何より、ギタリストのキース・リチャーズに心から憧れた。リズム・ギターのかっこよさ、とでも言うのかな。あの佇まいは、ほとんど反則に近い。物理法則を無視して立っているみたいだ。僕はとにかく夢中だった。
長いキャリアを持つ彼らの音楽が一番芳醇だったのは、1968年から70年代の中期までだ。特に『Jumping Jack Flash』と『Honky Tonk Women』は、大谷翔平の場外ホームランにも似た、圧倒的で理不尽なほどの痛快さを持っている。ロックンロールの巨大な塊が、重力を無視してどこまでもかっ飛んでいくイメージだ。いつ聴いてもね。
僕が「The Riot」というバンドに加入したきっかけも、この『Jumping Jack Flash』だった。 リーダーでギタリストのカジワラが、僕がどこかのセッションでこの曲を歌っているのを見て、ボーカリストとして目をつけてくれていたらしい。まあ、あの頃の神戸でこの曲を歌わせたら、僕は高校生の中ではいい線いってたはずだ。何と言っても、聴いた回数だけは、税務署の職員が伝票をめくる回数よりも多かったはずだから。
The Riotは元々、聖洋学院の二人――ボーカルのカモダと、ギターのカジワラが中心になって、ARBなんかを演っていたビート・バンドだった。カジワラはエディ・ヴァン・ヘイレンに似た人懐っこい笑顔を持つナイスガイで、フレットを自分で彫刻刀で削ったストラトキャスターの使い手だった(正気の沙汰とは思えないが、音は悪くなかった)。ボーカルのカモダは、下手すると石橋凌さんよりも声量があったんじゃないかというくらいの、破壊的なシンガーだったよ。
だがカモダは、高三になる前にThe Riotを抜け、聖洋学院も退学してしまった。「音楽でプロになる」と言い残して、同じ17歳のメンバーを集めて「The Standers」というバンドを組み、神戸のライブ・ハウスに出演するようになったんだ。カモダはギターなど弾けなかったはずだが、ローンで買ったと言う「リッケンバッカー330」をかき鳴らして、シャウトしていた。実にパンクだった。1986年だから、まだブルーハーツもジュンスカもデビューしてなかったけど、すでにThe Standersはそんな音を出していたんだ。時代の方が彼に追いついていなかったのかもしれない。
そんなカモダの後釜として、僕が誘われたわけだ。正直、戸惑ったよ。僕はボーカル専門なんてやったことがなかったからね。だって、僕はキース・リチャーズになりたいんだぜ? フロントマンの横で、斜に構えてクールにギターを弾くことが何よりかっこいいと思ってたんだ。それに相手はあの聖洋学院のThe Riotだ。僕とショウが一番意識していたバンドだったから、なおさらね。
聖洋学院というのは、高等部でもバンドのレベルが異常に高くてね。文化祭に出るだけでも、30組ほどのエントリーの中から厳しいオーディションを勝ち抜かなきゃならない。ラクダが針の穴を通る方がまだ簡単かもしれない、というくらいの狭き門だ。
The Riotは、彼らが高二の頃に上級生を蹴落として、文化祭のメインイベント「後夜祭」に出演することになっていた。ところが、カモダがナーバスになって突然どこかに消えてしまい、結局パーになったんだ。悪い冗談みたいな話だろ? だからこそ、カジワラは高三での「後夜祭」出演に、並々ならぬ執念を燃やしていたってわけさ。
僕にしたって、ショウと別れてバンド浪人中だったから、カジワラに呼び出されて「ボーカルをやってくれ」と頼まれた時、まあ断る理由はなかった。僕にはその頃、すでに1ダースくらいの自作曲があった。どれも自信作だったよ。それをThe Riotとして演奏してくれるって言うんだ。ARBを数曲歌う必要があったけど、僕だって石橋凌さんの大ファンだったから、歌うことにやぶさかじゃなかったんだよね。
聖洋学院の学園祭には、出演バンドメンバーの四分の一までは校外の人間を入れてもいいというルールがあった。四人編成のバンドなら、一人までは僕みたいな部外者でも構わないってことだ。僕のためにあつらえたような抜け道だ。そして、そのオーディションで三位までに入れば、高校生活最後の一大イベント、後夜祭のステージに立てる。聖洋の連中にとっては、それがすべてだったんだ。
そんなわけで、僕はThe Riotの一員になった。僕ら、一位を獲るために、もうめちゃくちゃ練習したさ。僕は家が明石だったから、毎回西宮まで通い詰めてね。The Riotのメンバーは優秀だった。ドラムのマー坊と呼ばれる男は、子供の頃からピアノの英才教育を受けているようなやつなんだけど、実にビートの効いたご機嫌なドラムを叩く。ベースのセイジは心優しき大男で、体格に見合った野太い音が特徴のベーシスト。そしてカジワラのギターには独特の粘り気があって、もしロビー・ロバートソンが間違ってビート・ロック・バンドに加入してしまったらこんな感じだろうか、と思わせる音を出した。
そこに僕。
初めてのセンターマイク。ギター&ボーカルとして、フロントマンとして立つステージ。しかも、勝負に勝たなきゃいけない。自信? もちろんあったさ。
彼らとのリハーサルを重ねる中で、喉が強くなっていく気がしたし、小さな部屋でショウと作っていたデモテープから飛び出して、僕の自作曲がリアルなロックンロールに変わっていくのが最高にご機嫌な体験だった。何度も同じ歌を歌っていると、メロディをライブ用にダイレクトに伝わる形へ変更したり、遊びでフェイクを入れたりもする。もちろん、全部、ミック・ジャガーの真似だよ。うまく行っているのかどうかはともかくとして、気分だけはロンドンのハイドパークにいたわけだ。
結果? 一位を獲っちまったんだ。 僕たち四人、あまりにも嬉しくて、図体のデカい男たちが人目も憚らず抱き合って泣いたよ。溶けたアイスクリームみたいにぐしゃぐしゃになってね。あの時のことは忘れられない。
後夜祭の大トリでThe Riotは四十分くらいのステージをやった。ARBの曲が二曲と、カジワラの曲が一つ。あとは僕の曲を六曲くらいやったんだ。
盛り上がりは尋常じゃなかったよ。公立高の文化祭とはわけが違う。これが私立名門校の本気のイベントかと度肝を抜かれた。広い講堂にゆうに1000人以上――いや、もっといたかな――大勢の若者が熱狂していた。僕の曲なんか初めて聴くはずだったのにさ。そう、聖洋学院の連中にとっては、これが高校生活最後のビッグなイベントなんだ。
その後夜祭を最後に、The Riotは解散した。最初からそういう約束だったんだよ。ひと夏の、ささやかな革命だったってわけだ。
でも僕にとっては、これが終わりじゃなくて始まりだったんだ。「俺は行ける」って完全に勘違いしたんだ。あの後夜祭に誘われてなかったら、プロになろうなんて考えなかったはずさ。運命ってやつだよ。
僕は、この聖洋学院の人脈を集めて新しいバンドを組んで、まずは地元神戸で、一旗上げてやろうと企んだんだ。