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『フレップダンス』――野球少年だった自分と、今の自分が心の中で抱き合った日
成瀬英樹
成瀬英樹
9月26日 9:54

『フレップダンス』――野球少年だった自分と、今の自分が心の中で抱き合った日


成瀬英樹インタビュー


――まず、『フレップダンス』を作ることになったきっかけから聞かせてください。
 

今年で、エスコンのそばに移住して3シーズン目なんです。1年目は普通にファンとして、50何試合かな、毎回いろんな席で観ていました。でも、あまりにもスタジアムが素晴らしく、ファイターズが好きなので、昨年から奮発して外野の年間シートを買ったんです。せっかくエスコンの近くでベースボールを感じるために移住してきたのだから、徹底的に味わおうと。日々の暮らしはなるべく節約して(笑)

 

その申し込みの際、ファイターズのシーズンシート担当の方に、一応合同会社BINGOって会社をやってますと名刺をお渡ししたんです。「どんな仕事をされているんですか?」と聞かれて、「作曲をやっています」と。そのお話を球団のエンタメ担当の方に話してくださったみたいなんですね。

 

エンタメ担当の方はAKB48などアイドルにもすごく造詣が深くて、僕の曲も知ってくださっていて。『君はメロディー』はいつもカラオケで歌っています、なんてうれしいことを言ってくれたんです。そんな感じで一度ご挨拶をしました。


――そこから、すぐに発注につながったわけではないんですね。

 

はい。ただ、昨年のファイターズのキャッチフレーズが「大航海は続く」だったので、『大航海は続く』という曲を石崎光さんたちと作ったんです。僕らはシンガーソングライターだから、感動したことに対して歌を作って発表するのは当然じゃないか、という感覚で、この曲自体をどうこうしようとは思ってなかったんだけど。

ちょうど石崎さんと出会った頃でもあったので、「いい曲を作ってみましょうよ」と。本当に本気で作って、それは今もサブスクに上がっていますよ。担当の方に「こんなの作りました」とリンクを送らせていただいたり、ぐらいはしてたんですけど。すると、8月頃だったかな。「フレップの曲を作っていただきたい」というお話をいただいたんです。


――その瞬間は、うれしかった?

 

もちろん。でも、むしろプレッシャーの方が大きかったですね。世界一のベースボールスタジアムで自分の曲が流れる。そんなこと、夢にすら思ったことがなかった。小さい頃からずっとベースボールが好きで、野球場に通ってきた人間ですから、それがどれほど特別なことかはわかっています。

 

そう。目の前に本当に叶えたい夢があると、人ってこんなに苦しくなるんだなと思いました。

 

だから、昨年の8月以降は、試合を観てても落ち着かなくて。選手よりずっとフレップを見ていました(笑)フレップがどう動くのか。どんな曲だったら似合うのか。そればっかり考えていましたね。そして、このチャンスは絶対に逃したくなかったので、頼まれてもいないのに3曲書きました。その中から選んでいただいたのが『フレップダンス』です。


――曲の方向性は、最初から見えていましたか?

 

僕は昔から、ベースボールにはロックンロールが合うと思っているんです。ベースボールソングで言うと、たとえばジョン・フォガティの『Centerfield』みたいな。ああいうロックンロールをやりたかった。

 

日本のスタジアムで使われる曲って、ダンスミュージックだったり、みんなで威勢よく合唱するものだったり、あるいはファンシーなものだったりするでしょう。だから、ロックンロールでいきたかったんです。

 

しかも球団の方から、「かっこよくて可愛い曲を作っていただきたいから、成瀬さんにお願いします」と言っていただいたんです。それは、ものすごくうれしかったですね。「任せとけ!」って思いました(笑)


――とはいえ、制作はすぐには進まなかった。

 

僕、普段は曲を作るのは本当に早いんです。でも『フレップダンス』は1か月くらい、何にもできなかったですね。締め切りをたっぷりいただいていたこともありますし、球団から30曲近く入った参考プレイリストもいただいたんです。「みんなでこんなイメージを描いています」と。

 

ファイターズのエンタメチームのみなさんって、本当に真摯なんですよ。フレップに最高の楽曲を、と熱意を強く感じました。僕もその30曲を毎日毎日聴いて、身体に入れて入れていきました。絶対、ご期待にお応えするんだとの一心でした。


――その3曲の中で『フレップダンス』に決まった時はどんなお気持ちでした?

 

「ですよねー」って感じです(笑)僕も石崎さんも、3曲とも心から気に入っていたんですけど、やっぱり1曲となると『フレップダンス』じゃないかなって最初から思ってましたね。


――作業の工程ってどんな感じなんですか? 作曲は石崎さんとの共作ですよね?

 

まず僕が作詞作曲をして、フルコーラスのデモを作ります。その時点で歌詞もしっかりあります。それを石崎さんに渡してサウンドプロデュースしていただく形です。アレンジはもちろん、足りないメロディを補っていただくこともあります。この曲では、エンディングのスキャットのメロディは石崎さんです。球場ではなかなかそこまでかからないんですけどね。僕と石崎さんの共作はいつもこのスタイルです。ちなみに歌詞も曲もアレンジも、一切の修正なしの一発OKでした。本当にうれしかったなあ。


――そして、歌っているのも成瀬さん自身です。

 

そこなんですよ(笑)『フレップダンス』に決まって、「では本番を作ってください」となった時、もちろん別のシンガーを立てることもできた。でも、僕の中のロックシンガー魂がムクムクと出てきて。

 

「俺が歌いたい」と(笑)

 

ちょっと待って、僕はそもそも歌手だからね? 忘れてもらっては困るんですよ(笑)

 

ただ、最終的には誰かに差し替わるんだろうなとは思っていました。50代後半のおじさんが歌うより、若くて上手な人もいるでしょうからね。それでも、まず自分がベストを尽くそうと思ったんです。

 

札幌のどこにボーカルレコーディングにふさわしいスタジオがあるか知らないので、ネットで調べて電話をかけまくりました。それで、どこかのボウリング場の地下にあるリハーサルスタジオに入って、本当に30回ぶっ通しで歌った。それを全部、石崎光さんに送って仕上げていただきました。

 

ファイターズの担当の方にも「歌、いいですね」とは言っていただいたんですけど、その後、ボーカリストをどうするという話も特になくて。どうなるんだろう、って思っていたら、そのまま僕の声で流れてました(笑)


――初めてエスコンで披露された日のことは覚えていますか?

 

もちろんです。昨年のファン感謝デーの最後、アンコール的なコーナーで、満員の観衆を前にサプライズ初披露していただいたんです。本当にうれしかった。鳥肌ものでした。

 

ずっとベースボールを愛してきた僕の中の少年と、ずいぶんおじさんになった今の僕が、心の中で泣きながら抱き合ったような感覚でしたね。

 

――そして2026年、公式戦でも『フレップダンス』が流れ始める。

 

開幕戦は特別でした。オープン戦でもパフォーマンスしてくれていたんですけど、やっぱり公式戦は違います。そしてその試合で細野投手がノーヒットノーランを達成した。つまり、僕にとって『フレップダンス』の公式戦デビューは、細野くんのノーヒットノーランから始まったんです。

 

何よりうれしかったのは、あの素晴らしいゲームの一部になれたことでした。ずっと客席から見ていたベースボールの中に、自分の作った音楽が存在している。それが、本当に誇らしかったですね。


――シーズンを通して、曲が浸透していく実感もありましたか?
 

ありました。4月から毎試合ずっと流れて、少しずつ少しずつ浸透していくのが分かるんですよ。初夏の頃に北海道の地上波の朝のニュース番組で踊っていただいたり、SNSでファイターズOBの方が踊ってくださったり。その頃から、球場でも踊ってくださる方が目に見えて増えました。

ビールの売り子さんたちの中にも、完璧な振り付けで踊ってくださる方もいらっしゃったり。いや、思わず握手しに行きそうになりましたもの。「私の曲です!踊ってくれてありがとう!」って(笑)

 

エスコンでは、3回裏終了後にかの有名な『きつねダンス』があって、4回裏終了後に『フレップダンス』があるんです。エスコンには毎日いろいろな豪華ゲストの方が来られるんですけど、やっぱり『きつねダンス』は踊っても、『フレップダンス』まではなかなか手が回らない。それは当然だと思うんです。

 

そんな中で、乃木坂46さん、AKB48さん、アバンギャルディさんらが『フレップダンス』をしっかり覚えて踊ってくださったのは、本当にうれしかったですね。あと純烈さんも踊ってくださいました。これがまた、すごく可愛かった(笑)

 

とっておきのエピソードをお話しすると、今年、僕は乃木坂46さんに『パシフィック・リーグに連れてって』『是非に及ばず』の2曲を作曲させていただいたんです。前者はパ・リーグとの公式コラボで、メンバーの中で野球好きが集まって「乃木坂野球部」名義で歌ってくれています。そして後者は今夏のシングル表題曲です。

 

そんな関係で、この夏、神宮球場ライブを拝見した後に、メンバーのみなさんとご挨拶できる機会がありまして。乃木坂野球部のみなさんにも、「『パシフィック・リーグに連れてって』を作った成瀬です」とご挨拶したら、みなさん「あーーーーー!『フレップダンス』も作ったんですよね!?あの曲大好きです!!!」って言ってくれたんですよ。こんなにうれしいことがあるでしょうか。


――歌詞についても、かなり意識したことがあったそうですね。

 

球場にはお子さんがたくさん来るんです。歌って、1から10まで全部を聴くものじゃないと思うんですよ。ふと耳に入った一言だけが残ることがある。だから『フレップダンス』には、「今日もサプライズしよう」とか、「どんな困難でも越えていけるよ」とか、「心一つにシンガロング」とか、ポジティブな言葉を入れたかったんです。

 

子どもたちは毎日の勉強だって大変だろうし、エスコンに年に1回しか来られない子もいるでしょう。その子らの耳に「どんな困難でも越えていけるよ」という言葉がピュッと入って、何か残ったらいいなと思ったんです。

 

僕がベースボールから受け取ったメッセージってそこなんです。「どんな困難でも越えていける」。だから、あきらめるな、って。


――2026年は、成瀬さんにとって音楽とベースボールがかなり深く重なった1年でもありましたね。

 

そうですね。乃木坂46×パ・リーグの『パシフィック・リーグに連れてって』も書かせていただいたので、エスコンで、1日に自分が書いた曲が2曲流れることも多かったんです。ただただ、毎日誇らしかったです。

 

こんな幸運な年は今後二度とないから、今のうちにしっかり味わっておこう、と毎日感じていましたね。自分なりにここまで頑張ってきたご褒美なのかな、今年は報われた年だったと思っています。


――最後に、『フレップダンス』について、まだひとつ願いがあると聞きました。

 

実は『フレップダンス』には2番があるんです。でも球場では、なかなか2番まで流れる機会がない。一生懸命作った曲なので、いつかフルで聴いていただける機会があったら、うれしいですね。

 

何より、この素晴らしいエスコンフィールドで、ファイターズのゲームの一部になれたことが本当に幸せです。そして、大好きな選手のみなさんや、憧れのレジェンドが多くいる監督やコーチにも僕の歌を聴いてもらえている。もう、それだけで僕は十分なんです。

9月27日、新宿でオフ会やります
BINGO Songwriting Club 「成瀬英樹ゼミ」 メンバー マイソングプラン
成瀬英樹
成瀬英樹
9月24日 13:42

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18年と20年と29年
成瀬英樹
成瀬英樹
9月23日 10:06

アメリカから帰ってきたら、もうエスコンフィールドでファイターズの6連戦が待っていた。この6連戦で今年のレギュラーシーズンはおしまいってわけさ。3位以内はもう決まっている。だから今やっているのは、2位になるための戦いなんだ。2位ならクライマックスシリーズをエスコンでやれる。ホームで戦えるってことさ。3位だと西武の本拠地、ベルーナドームまで行かなくちゃならない。まったくの話、これは大きな違いなんだ。2年続けてエスコンでCSをやってきたんだから、6つぜんぶ勝って、向こうにたっぷりプレッシャーをかけてやりたい。そういう状況だった。

 

で、いきなり2連敗さ。もう勘弁してくれよ、って感じだった。それでも3戦目は勝った。そして昨日だ。いきなり5点を先に取られた。しかもその日は中島卓也の引退試合で、中島がショートでスタメンに名前を連ねていたんだけど、彼のエラーがからんだ点もあった。準エースと言っていい北山亘基が、いきなり5失点だよ。さすがに5点はまずいんじゃないか、とぼくは思った。誰だってそう思うさ。ところがファイターズは6点取って、ひっくり返して勝っちまった。じつにシンプルで、じつに感動的な試合だった。

 

中島卓也っていうのは、18年間ファイターズでやってきた名内野手なんだ。ぼくは2004年からずっと日本のプロ野球をボイコットしていた人間なんだけど(子どもの頃から愛したチームを奪われて、おとなしく引き下がっていられるはずがないからね)、そんなぼくでさえ中島の存在と影響力はよく知っていた。ここ数年だってしぶとく活躍してチームに貢献していたし、あれだけのベテランが2軍でプレーして、若い連中にいい影響を与えたりもしていた。そういう選手なんだよ。

試合のあとのセレモニーも、本当にぐっとくるものだった。エスコンフィールドのエンタメ力とでも言えばいいのかな。それをたっぷり見せてもらった。まったくの話、エスコンってのはすごい。世界一だと思うね。ヤンキースタジアムもドジャースタジアムも、久しぶりに見てきたばかりなんだけど、同じ目で、まったくフラットに見ても、ぼくはエスコンが圧倒的に好きなんだ。日本の球場のなかではちょっとレベルが違うんだけど、ニューヨークやロサンゼルスと並べてみたところで、まるっきり見劣りしない。本当だよ。

 

「18年間お疲れさま」という言葉を聞きながら、ぼくはふと自分のことを考えたんだ。ぼくは今年で作曲家になって20年になる。つまり中島より長いこと作曲家をやってるってことなんだよ。これって意外とベテランじゃないか、ってふっと思った。どうしたって先輩たちに目がいっちまうからさ。この業界には40年、50年と続けている先輩たちがいるわけで、20年なんてまだまだひよっこだと思っていた。でも中島の18年の重みを考えているうちに、20年なんとか作曲家でやってこられたってのは、けっこう誇ってもいいことなんじゃないかと思えてきたんだ。普段はまるで姿を見せてくれない自己肯定感みたいなものが、ほんのちょっとだけ心をよぎった。自分はよくやったんじゃないか、っていう気持ちがさ。それでぼくは、すごく嬉しくなった。

 

作曲家になる前に、ぼくは歌って演奏するバンドマンだった。フォー・トリップスというバンドでデビューしたのが29年前だ。29年だよ。そして気づいたんだ。ぼくたちには引退ってものがないんだな、って。やり続けているかぎりはさ。結局のところ、プロ野球選手もぼくたちも同じなんだよ。必要とされているかぎり、仕事がある。もちろん野球選手には体力の問題があるから、40を過ぎ、50を過ぎてもやれるってものじゃないけどね。ただちょっとだけ、引退があるってのもいいものだな、と思った。区切りがつくからさ。中島はプレーヤーとしては引退したけれど、一生野球人だし、彼の素晴らしい技術を後輩に伝えるという大切な仕事がこれから待っている。

 

中島は昨日の第3打席で内野安打を打った。一塁のタイミングは、じつに微妙だった。普通ならリクエスト、つまりアウトかセーフかビデオで確かめてくれ、というところだろう。試合のなかでも大事な場面だったしね。でも相手の楽天監督吉井理人(ああ、栄光の近鉄バファローズ戦士、ぼくの永遠のヒーローさ)は、まったく出てこようとはしなかった。当然だよ。ぼくは吉井理人さんのそういうところがやっぱり好きなんだ。

 

でもさ。改めて考えてみれば、どの監督だってあそこではリクエストしなかったんだろうと思い直した。うん、つまり、そういうことなんだ。

 

中島卓也選手。本当にお疲れさまでした。

  • 成瀬英樹
    成瀬英樹
    9月23日 16:39

    本当に野暮なことだとは思うんですけど、一応ご説明しておきますと、敬称を略しているのやちょっと生意気な文体は、50年代のアメリカの小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のパロディでございます。そうとは分からなくても、何かのシャレなんだろうなとご理解いただけるとは思うんですけれども、この頃は長い文章を読む機会が少ない方が多いらしく、「なんだよこれ、呼び捨てじゃねえかよ」と思われたら困るので、一応言い訳しておきます(笑)

The Singer In The Rye
成瀬英樹
成瀬英樹
9月22日 3:45

旅のいちばん最後の場所はサンタモニカのライブハウスだったんだけど、そこで僕は、70年代のキャロル・キングにそっくりな女の人とたまたま隣り合わせた。嘘じゃなくて、ほんとにそっくりだったんだよ。彼女はアムステルダムから、わざわざそのライブハウスを味わいつくすためだけにやってきたんだそうだ。そういうのって、僕はけっこう参っちゃうんだよね。いい意味でさ。

 

「どのくらいいるの?」と彼女は訊いた。

 

「明後日帰るよ」

 

「そうなんだ。どのくらいいたの?」

 

「ロスに4泊、ニューヨークに5泊、それからサンタモニカに3泊かな」

 

「あら、短いのね。Short!」

 

ショート、ときたもんだ。12日も家を空けるのが短いのか長いのか、僕にはさっぱりわからない。でも本当のことを言えば、それは僕にとってめいっぱいのロングトリップだったんだ。まったくの話。ヨーロッパの人たちっていうのは、休みとなったらもっとどかんと旅に出ちゃうんだろうね。

 

とはいっても、その2週間ばかりのアメリカ旅行のあいだ、娘と別行動をとって、ひとりでカフェに入ったり、公園に行ったり、本屋をうろついたりする時間もちゃんとあった。そういうとき、人はいろんなことを考えちゃうものなんだ。君だってきっとそうだと思う。

 

まず考えたのは今年のことだ。今年のあたまから僕は、結果ってやつにきっちり照準を合わせてやるぞと決めて、そのとおりに動いてきた。そしたら自分で思っていたよりずっと派手に結果が出ちゃったんだよ。そりゃ嬉しいさ。嬉しくないわけがない。でもそれと同時に、心のどこかで自分にブレーキをかけているようなところもあるんだ。おかしな話だけどね。

 

君が僕のことをどう思っているかは知らないけど、僕はこう見えて、なかなか浮かれない人間なんだ。嘘じゃなくて。

 

今年は作曲家になって20年目で、これまでにない特別な年にしてやろうと、僕はえらく張り切ってスタートを切ったんだ。そしたらほんとに特別な年になっちゃった。僕は本当に運に恵まれているんだ。

 

そうそう。『恋の中央線』の発売だってまだ来月に控えているし、今年のうちにあと何曲か、滑り込みで決まってくれないかなと思って、僕はあいかわらず毎日せっせと曲を作っている。そういうところは20年前とちっとも変わっちゃいないんだ。

 

その中でも、いちばんはっきりした目標として僕がずっと抱えこんでいたのは、「60歳までに乃木坂46の表題曲を取る」ってやつだった。ちなみに僕は今57歳だ。つまりあと3年あるわけで、この3年のうちになんとか、みたいなことを僕は大まじめに考えていたんだよ。でもよく考えてみたら、それってずいぶんのんびりした話だよな。実際にやることといえば、目の前にやってきたコンペをひとつずつ取りにいく、それだけなんだから。そして君も知ってのとおり、今年、表題曲に選んでもらって、おまけにヒットまでさせてもらった。まったくの話。

 

それでね、僕はその目標をクリアしたら、もう一度ギターを抱えてライブをやりたいと、ずっと思っていたんだ。それが今年かなっちゃったものだから、そうだよな、歌いたいよな、という気持ちがものすごい勢いで湧いてきている。なにしろものすごい勢いなんだよ。

 

春先のことだったと思う。長いつきあいの友だちが北海道まで歌いに来て、実にもう素晴らしいライブを見せてくれた。そのとき彼女が言ったんだ。「なるちゃん、一緒に歌おうよ、札幌で」って。

 

一緒に歌おうよ、ときた。そうだよな。それに僕は企画屋でもあるわけだしな。

 

そんなことをあれこれ考えていたんだけど、たしかにちょっと面白いことができるかもしれない。だいいち、僕が札幌にいるっていうのは、それだけでひとつの強みなんだ。

 

僕の好きなアーティストやミュージシャンを、順ぐりにでも、のんびりとでもいいから、こっちに呼ぶ。そして札幌の人たちに、その素晴らしい演奏を見てもらう。で、そのついでに僕もちょっと歌わせてもらえたら、言うことはない。

 

歌う歌ならどっさりあるんだ。『君はメロディー』や『君は僕だ』だけじゃない。風輪さんにはたくさん曲を書かせてもらったし、『是非に及ばず』だってある。『フレップダンス』もある。それに『恋の中央線』だって、僕は歌えるんだぜ。嘘じゃなくて。

 

(もっとも『フレップダンス』をどうやって弾き語りすりゃいいのか、僕にはさっぱり見当がつかないんだけどさ。でもあの曲だって、ギター1本でやってみたら、それはそれでなかなかのものになるんじゃないかな)

 

ライブで歌うっていうのは、僕にとってはつまりライフワークなんだ。数ある仕事の中でいちばん儲からないやつなんだけどね。嘘じゃなくて、いちばん儲からない。

 

僕はアーティストとして人気があるわけじゃぜんぜんないし、お客さんがどっさり入ってどうのこうの、っていうタイプの人間でもない。でもなんといっても僕はミュージシャンなんだ。そしてライブの現場から離れていると、腕ってやつはきっちり錆びていく。そういうのって、僕をけっこう落ち込ませるんだよ。

 

この50代後半というもの、僕は会社のマネジメントだの、まずは自分の目標を達成することだの、ヒットを出すことだのを頭に置いて、がんばってきた。でも今年、思っていたよりうまくいっちゃったぶん、ちょっと前倒しでライブをやってもいいんじゃないか、なんて思ったりもしている。

 

やろっかな。ちょっと考えるね。

 

そのときには君もぜひ札幌まで遠征してきてくれよ、なんて言うのは、なかなか虫のいい話かもしれない。でも飛行機だってうまく取ればそんなに高くないんだぜ。東京から大阪まで新幹線で行くより安く来られることだってある。ほんとの話。

 

そんな日が来たらいいよな、と思いつつ、友だちに「本当にやろっか」ってLINEを送ろうかどうしようか、僕は今ちょっと迷っているところなんだ。

LAXなう
成瀬英樹
成瀬英樹
9月17日 2:59

9月13日

 

ニューヨーク滞在を終え、西海岸へ戻る日になった。今回の旅はロサンゼルスからニューヨークへ飛び、そこからまたロサンゼルスへ戻るという行程だ。朝、さゆりん宅を出てJFKへ。さゆりん一家には本当にお世話になった。ターミナル5で荷物を預け、搭乗までの時間を空港で過ごす。

 

JetBlueで再びロサンゼルスへ。東海岸から西海岸へ、アメリカ大陸を横断する5時間のフライトを終えて、夜のLAXに着いた。「LAX-it」という配車サービス専用の乗り場からUberを呼び、今回の旅の最後の滞在地、サンタモニカの宿へ向かった。ホテルから海まで歩いてすぐの、少し古い建物だが、しっかりとマネージメントされたホテルだった。ラッキー。

 

9月14日

 

この日は親子ソロ活動。娘は娘で、僕は僕で、それぞれ好きなようにサンタモニカを歩くことにした

 

僕は朝、ホテルを出て海の方へ向かう。サンタモニカはロサンゼルス中心部とはかなり雰囲気が違う。

 

Santa Monica Pierには観覧車や遊園地があり、観光客が大勢歩いている。にぎやかな場所だけれど、桟橋の先まで進めば、目の前には太平洋しかない。

 

実は僕がここへ来るのは2回目である。1997年、FOUR TRIPSのメンバーとして、ファーストシングルのMV撮影でこの地を踏んでいる。ただ、懐かしさはない。正直、あまりよく覚えていないからだ。MVの中で笑う僕は、本当に僕なのか。

 

そしてここはRoute 66の西の終点として知られている場所でもある。シカゴから約4,000km、アメリカを横断してきた道が、最後に太平洋へたどり着く。「Route 66。アメリカの夢。」その終点に実際に立ってみると、やはり少し感慨がある。そういえば娘はこの旅の間ずっとジャック・ケルアックの『路上』を読んでいる。

 

そこからは特に予定を決めず、気になった道を曲がったり、店を覗いたりしながら街を歩いた。昼になって一人で店に入り、肉料理を食べた。

 

夕方になって娘と合流すると、「夜、エビ料理を食べに行こう」と誘われた。いいね、とついていった先を見て笑った。昼間、僕が一人で入った同じ店だった。一日別々に歩いていたのに、結局同じ店を選んでいる。親子というのは、こういうところで妙に似るらしい。幸い僕は昼には肉を食べていたので、夜はエビを頼み、料理までかぶらずに済んだ。

 

食事を終えてホテルへ戻る。娘はそのまま部屋でゆっくり過ごすことにして、僕は近くに気になるライブハウスがあることを話した。すると娘が言う。

 

「パパ、行ってきなよ」

 

というわけで、一人で夜のサンタモニカへ。

 

向かったのは、ホテルから歩いてすぐ、4th StreetにあるHarvelle's。1931年創業、サンタモニカで90年以上続いている老舗のライブハウスだ。

 

入口を入って階段を下りると、昼間まで歩いていた海辺の街とはまるで違う空気になる。店内は暗く、天井は低く、奥にバーがあって、そのすぐ先にステージがある。

 

この日のイベントは『ALL-STAR JAM SESSION BENEFIT』。LAの第一線で活動してきたセッションミュージシャンたちがハウスバンドとなり、そこへさまざまな飛び入りミュージシャンやシンガーが加わっていくジャムセッション。

 

席に座って開演を待っていると、ひとりの女性がにこやかに隣へ座った。どこかキャロル・キングに似た雰囲気の人だった。自然に自己紹介をしてくれて、聞けば、このイベントのためにわざわざアムステルダムからやって来たという。そして僕に向かって、嬉しそうに言った。「あなた、今夜は本当に特別な夜なのよ。ラッキーね!」

 

中心にいるのはベーシストのC.C. Thomas Jr.。Diana Rossの音楽監督を務め、Babyface、Jeffrey Osborne、Patti Austin、Howard Hewettなど、数多くのアーティストと仕事をしてきた人だ。

 

ドラムはDonnell Spencer Jr.。Anita Baker、Chaka Khan、Patti Austin、El DeBarge、Jody Watleyらと演奏してきた。キーボードのHerman Jacksonは、Stevie Wonder、Quincy Jones、Aretha Franklin、Babyface、Rod Stewartなど。ギターのJay Goreは、Michael McDonald、Lauryn Hill、Michael Bolton、Bobby Caldwell、Marcus Miller、Christopher Cross、Sheila E.、Sealと、名前を挙げていけばきりがない。

 

そしてヴォーカルにはHarry Bowens。Was (Not Was)の共同リードヴォーカルとして『Walk the Dinosaur』などを歌い、Lyle LovettのLarge Bandでも長く活動し、Bob Dylan、Elton John、Bonnie Raitt、Brian Wilsonなどの作品にも参加している人だ。

 

キャロル・キングに似た女性は、ミュージシャンの一人一人を丁寧に僕に教えてくれた。自身もサックスをプレイするのだそう。どんな音楽が好きなの? と聞くと「オーティス・レディング」と来た。おう、その辺なら僕も大好きだ。大いに話に花が咲く。ステージでは飛び入りの男性シンガーとドラマーがマイケル・ジャクソン『ビリー・ジーン』を信じられないくらいファンキーに演ってる。こんなちっちゃなハコで、こんなえげつないライブが見られるなんてな。てっぺん過ぎまで、僕ら大いに楽しんだ。

 

ライブが終わって店を出ると、夜のサンタモニカは静かだった。ほかほかの心を抱いて、歩いてホテルへ戻った。

 

9月15日

 

アメリカ最後の丸一日。翌日はもうLAXから日本へ帰るので、この日はどこかへ急いで行くというより、サンタモニカの街をもう一度ゆっくり歩くことにした。

朝、ホテルを出てSanta Monica Pierへ。ピアの周辺をぶらぶらしたり、少し座って海を眺めたりしてから、また街の方へ戻った。

 

サンタモニカへ来てからずっと気になっていたのが、The Beach Boys。彼らは南カリフォルニアの音楽そのもののような存在だけれど、この街にも、実際に彼らが音楽を作っていた場所が残っている。

 

5th Streetの1454番地。ここにはかつて、The Beach BoysのBrother Studioがあった。

 

もともと劇場だった建物をスタジオへ改装し、1970年代半ば、彼らはここでレコーディングを行っていた。『15 Big Ones』『The Beach Boys Love You』、そして長い間お蔵入りになっていた『Adult/Child』。Brian Wilsonが再びバンドの制作へ深く関わっていった時期の音が、この場所で作られている。

 

今そこへ行っても、記念館があるわけではないし、The Beach Boysの看板が出ているわけでもない。ごく普通の街の一角になっている。でも、その普通さが面白かった。半世紀前、Brian Wilsonやメンバーたちがここへ通い、スタジオの中で音を作っていた。建物や店が変わっても、魂は同じ場所に残っている。

 

1997年、僕たちのファーストシングルが13万枚ほど売れて、印税が入ってきた。僕はそれで、ギブソンのギターJ-160Eと、ケンウッドのオーディオと、数えきれないほどのCDを買った。特に「コンプリート」していないアーティストのものを、すべて。ニルソン、ディラン、ニール・ヤング、JT、ジョニ・ミッチェル、細野晴臣、もう片っ端からだ。その中にビーチボーイズもあった。中でも70年代後半のブラザーレコード時代にはなかなか食指が動かないものだが、これも全部買った。そしたらもう『Love You』というアルバムの素晴らしさに打ちのめされた。『ペット・サウンズ』よりも剥き出しで、ブライアンの天使のようなファルセットは、完全に失われているのだが、その悲痛さを僕は愛した。

 

ブライアンはこの通りを歩きながら、この海を見ながら、ここで『Love You』を作っていたのか。

 

夜は、ホテルの前にあるイタリアンへ。最後の夜なので遠くへ出かけず、近所でゆっくり食事をすることにした。

 

ところが、ここでも我々親子は相変わらず料理を頼みすぎる。メニューを見ながらあれもこれも食べたくなって、気づけばテーブルの上にはかなりの量の料理が並んでいた。アメリカはやはり一品一品の量が多い。二人で顔を見合わせて苦笑いしながら食べ進めたものの、結局すべてを食べ切ることはできなかった。申し訳ない気持ちになったけれど、料理はどれもとても美味しかった。

 

食事のあと、僕は一人でHarvelle'sへ行った。この夜は地元のバンドが演奏していて、前日のジャムセッションとはまた違う、街のライブハウスらしい夜だった。

 

やっている曲が面白かった。Weezerの『Island in the Sun』が出てきたときは、思わず笑ってしまった。そういえばこの曲、アメリカにいる間、街のあちこちで何回か耳にしている。日本を出る直前にラジオでかけたばかりだったから、なんだか不思議だった。

 

演奏を楽しんでホテルへ戻り、部屋で荷物を整理した。ニューヨークで手に入れたもの、ロサンゼルスで買ったものをスーツケースに詰めていく。
 

もうすぐ朝だ。娘はまだとなりでぐっすり眠っている。