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僕は大学には行かず、神戸の元町でアルバイトをしながら、バンド活動をしていた。当時僕がやってたバンドは「The Silentz」。
コステロとアトラクションズみたいな音を出したかった。
ライブでは一定の評価は受けてた。みんな演奏上手かったしね。僕は安物のエピフォンのカジノをかき鳴らして歌ってた。オルガンの奴は天才で、オルガンの上で逆立ちをするのが売りだったよ。
ただまあ、僕が突っ走りすぎて、メンバー達がついて来れない状態になってしまったんだ。20歳の頃から3年くらいはバンドはやめてた。疲れてしまったんだね、いろんな事に。もう半年あのまま続けていたら、バンドブームの波に乗っていたはずだ。今思えばあそこでやめてよかったよ。
バンドを辞めて、小さな会社に就職もして、生活もそれなりに安定して、仲間も愉快だったし、割と楽しく暮らしていた。でも、どこかで、「このままでいいのか」という感情はあった。だけど、ステージに戻るのは怖かったし勇気がいった。僕は一回シーンからドロップアウトした男だったから。今思えば、小さな世界なんだけど。それでもね。
1991年暮れにロードショーで「ザ・コミットメンツ」という音楽映画を、神戸のアサヒシネマで弟と一緒に観た。アイルランドの白人たちがソウルミュージックのバンドを組んでのし上がろうとする映画で最高にご機嫌だった。
すぐ感化される僕は「俺たちも日本人なりのソウルを!」って組んだバンドがFOUR TRIPSだった。友人のピアノ講師のSさん。ドラムの初田くん。ベースはTくんから池田憲彦に変わる。少しずつライブ活動を再開していったんだ。チキンジョージにもまた出演するようになった。1992年か。23,4だ。
最初のうちはスモール・フェイセズやMG'Sなんかを気取ってた。同時代のバンドはどんなものなのだろう、と、レンタルCDで新人バンドを三つ借りてきた。「スピッツ」と「L⇔R」と「Mr.Children」。どれも素晴らしかったけど、僕は断然、L⇔Rにかなりの衝撃を受けた。
2枚出ていたアルバムがどちらも、僕が頭の中で妄想していた日本語のロックンロールが体現されていた。ライブを観に行ったら、ライブでもしっかり歌えるし、演奏はうまいし。ルックスも抜群だし。これはすごいぞ!と。
僕たちのやり方は、思いっきりPOPに、ユーモラスに、パンキッシュに。リッケンバッカーとハモンド。男声と女声。清潔感。FOUR TRIPSはプロになって売れるために作った。
あらゆるオーディションにデモを送ったら、吉本興業に引っかかった。吉本の二丁目劇場の当時の支配人、比企啓介さんが「このままプロで行けるんちゃう?!」ってぐらい気に入ってくれて、それで「WA CHA CHA LIVE」というイベントに出演することになったんだ。FOUR TRIPSを、神戸らしくオシャレに売ろうってことになった。
比企啓介さんはまだ当時30代だったはずだけど、兄貴肌で爽やかで、とても仕事の出来る方でね。間寛平さんを東京で売った、という実績をすでに持っていたんだ。僕にとっての吉本の「WA CHA CHA LIVE」は比企さんのことだった。
心斎橋筋二丁目劇場へはここから毎週、約2年半、通うことになる。
関学の連中が組んでいたバンド「Revolution倶楽部」に僕がボーカルとして加入したのは、高三の夏の年。リーダーでギタリストの松山が僕をボーカリストとして、やや強引に誘い入れたんだ。
僕はボーカルを務めるのは初めてだったし、小さな世界とはいえ意識し合っていたライバル同士だったから最初は戸惑ったけど、松山は、僕がどこかのセッションか何かで歌った「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」を聴いて、ええやん!と思っていてくれたらしい。僕のオリジナル曲も気に入っててくれて。それで入ることにしたんだ。
関学って高等部でもバンドのレベルが高くて、文化祭に出演するためにもオーディションに合格する必要があった。20以上の関学の校内のバンドがそのオーディションに参加していた。
バンドメンバーの1/4までは校外の人間が入ってもいいというルールだった。そのオーディションで三位までに入ったら、文化祭の後夜祭に出られるんだ。関学生にとって高校生活最後のビッグイベントな訳。
僕ら本気で一位を獲るためにめちゃくちゃ練習したよ。僕は自作曲にも自信あったし。何故だろう、根拠のない自信ってやつです。
結果、一位を獲ることが出来た。嬉しくて抱き合って泣いて喜んだなあ。後夜祭の大トリで僕ら「Revolution倶楽部」は40分くらいのステージを演ったんだと思う。ARBの曲を2曲と松山の曲をひとつ。あとは僕の曲を6曲くらいやったのかな。盛り上がりは尋常じゃなかったね。公立高では考えられないくらいの大イベントなんだ。彼らにとっては高校生活最後のお祭りだものね。
その後夜祭を最後に「Revolution倶楽部」は解散した。最初からそういう約束だったんだ。
でも僕に取ってはこれが始まりだった。「俺は行ける」と完全に勘違いをしたんだ(笑)この、後夜祭に誘われてなかったら僕はプロになろうなんて絶対に思わなかったはずなんだ。運命だよなぁ。この関学人脈を集めてバンドを組んで、まずは地元神戸で、一旗上げてやろうと目論んだんだ。
「EMPTY」というバンドを結成して、翌年の春くらいに、神戸の老舗ライブハウスの「チキンジョージ」のオーディションに出たら受かったので、それから本格的にライブ活動をするようになった。YAMAHAのオーデションも、神戸大会くらいなら勝てるバンドに育って行ったんだ。1987年か。17,8くらいか。
そのYAMAHAのオーディションで一緒になったのが、僕と同い年の、大学生時代の榊いずみちゃんだ。可憐で歌の上手い、とても目を惹く女の子だったよ。
おはようございます!
昨日は一日休んでようと思いつつも、なかなかそうも行かず。まずは黒沢秀樹さんのYouTubeのことを考え抜く。
僕が秀樹さんのYouTubeを担当するのは年内ワンマンライブまでとしてあと4回。それは既定路線として最初から決まっていまして、それまでにもうひと盛り上がりを作りたいな、と思う。いくつか撮りだめたインタビューもあるし、時間的なことも考えると音楽的な試みはあと1回。ヒゲダンの「歌ってみた」が再生回数的にも評判的にもかなりうまくいったので、さあ次!だという自分的な機運もありつつ。
二択のアンケートに対していただいたいくつかのご意見でかなり考え込んでしまう。ツイートの短い文章ではありつつも「成瀬、秀樹さんに何やってくれてんだよ」というメッセージはしっかりとこちらに届くもの。まあそういうご意見もあろうかと思うが、やはりしっかりと胸に刺さる。
なぜ刺さるかと言うと、自分でもこれでいいんだろうか? って常に考え続けてるからなのです。迷ってるから。
もちろん自分がやってきたことへの自負もある。が同時に、いつも不安なんです。
ちょっと自分には責任が重いかな。そう思った。僕だってファンの皆さんの側に立って色んな意見を言っていたい。だってファンだもの(笑)でもそうはいかないよね。
すべての人を満足させることは出来ないし、好きなことだけやってて再生回数を回すことも出来ない。自分のYouTubeだったら何でもトライして失敗して笑い飛ばし進めばいいが、秀樹さんに何でもやらせるわけにはいかない。
で、結論。