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神宮の彼〜僕のファイターズ大航海日誌 #41 #42
メンバー クリエーターズ 成瀬英樹ゼミ 〜プロ作曲家養成〜 成瀬英樹ゼミ 分割プラン 旧プロ養成コース
成瀬英樹
成瀬英樹
6月13日 10:54

ヤクルト・スワローズというチームには、個人的に愛着がある。東京に住んでいた頃は、よくふらりと神宮球場まで行ったものだ。甲子園とはまた違った歴史の重さを感じさせてくれる、このいい感じにヴィンテージな野球場は、都会のど真ん中に位置する。最寄りの駅も複数の選択が可能だし、割と広めの駐車場が隣接しているのも非常にありがたい。


村上春樹さんがスワローズファンであることは有名だけれど、春樹さんが小説を書くきっかけになった「閃き」を得たのが、1978年の開幕試合でスワローズ往年の名選手デイブ・ヒルトンが放った二塁打だったことは、ご存知だろうか。結果的に「文学史を変えた二塁打」を外野席で観戦していた村上春樹青年は、その光景に「僕にも小説が書けるかもしれない」と感じ、万年筆を購入し、それで小説を書き始めたのだ。そう、ベースボールには物語が宿っている。
 

2006年に僕は「再上京」した。一度目の上京は1996年秋。FOUR TRIPSというバンドでデビューするためにメンバー4人、西荻窪の街でそれぞれ部屋を借りて住んだ。翌年の春にリリースが決まっていた我々のデビュー曲には、TBSのドラマ主題歌のタイアップがついていて、大きなヒットになることが期待されていたが、結果そうはならなかった。初回のビッグチャンスを逃した我々に二度目はなかった。2000年に一旦、神戸に帰ることにした。
 

地元に戻った我々FOUR TRIPSは、神戸駅近くの『JUKE BOX』という店で週一回ほどの出番を得た。1年ほどの期間、大いに楽しく演奏させてもらった。毎週2時間超のライブをこなすため、そして通りすがりの酔客をこちらに振り向かせるために、我々はカバー曲のレパートリーを充実させていった。そのうち、毎回ワンテーマでカバーナイトをやるようになっていった。ビートルズ、ストーンズなどは言うに及ばず、ニール・ヤング、はっぴいえんど、松本隆ナイトなんてのもやったりした。神戸の先輩ミュージシャンを呼んで、ジャムやクラッシュをまとめて演奏したりも。
 

メンバーで手分けして耳コピしてコード譜を用意して、本番で初めて合わせるようなことも増えた。それまでは、オリジナル曲を決められたセットリスト通りにやるようなライブしか経験がなかったので、今にして思えばこの「バー・バンド時代」は僕たちにとって、とてもエキサイティングな修行の場だった。
 

その『JUKE BOX』をアルバイトとして手伝っている男がいた。はクラブDJやFMラジオのDJとして神戸では知られた人物で、年齢は僕と同い年。我々はそれまでも顔見知りではあったが、親しく話すようなことはなかった。けれど、ここで会ったことをきっかけに、お互いが大好きだった野球の話などをつまみによく飲むようになった。運動神経抜群の彼は、僕の草野球チームにもときどき強力な助っ人として参加してくれたりもした。
 

当時の我々は30を少し過ぎたばかり。僕は音楽家として、彼はトークのプロとして。次なるチャンスに備えて、じっくりと爪を研いでいた。今度こそ、しくじらないよう、うまくいくように。今はじっくり力をためる時期なんだぜ、必ずまたチャンスは来る。だからきっと「いつかその日」を待ち望みながら、僕らは闇雲に毎週演奏し、彼はカウンターでカクテルを作り続けた。そして僕たちは一生分とも思えるくらいの量のビールを飲んだ。
 

2001年の秋に、僕が所属していた事務所が倒産して、モラトリアムな日々は突然終わった。バンドは空中分解し、『JUKE BOX』にも行かなくなった。僕はここから数年かけて作曲家になるべく修行を始めることになる。よくある苦労話だ。ありふれている。しかしながら、それが「我がこと」となると、そう呑気に相対化しているわけにもいかない。「ありふれた苦労話」は当人にとっては悲痛な日々だ。なんとか一、二曲をリリースすることができたのが2006年。僕は家族とともに再上京し、もう一度「東京」で挑戦することにした。
 

まだまだ「専業」とは行かなかったが、ようやく「作曲家」としてのキャリアを築き始めた2008年の春、神宮球場で僕は「彼」と突然、再会した。なんと彼はヤクルト・スワローズのスタジアムDJとしてそこにいたのだ。これ以上ぴったりな人選も、なかなかないだろうと思った。彼の活躍を心の底から嬉しく思ったし、誇らしく思った。
 

そういえば、最近いつ神宮に行ったかなと考えたら、2022年の日本シリーズ第7戦だった。オリックスがヤクルトを下し、久しぶりの日本一になったゲームだ。考えてみたら不思議なものだと思った。オリックスは神戸にルーツを持つチームで、「あの頃の神戸」の象徴のような存在でもある。そのオリックスと、ヤクルトが日本シリーズで対戦するなんてね。
 

今でも神宮のスタジアムDJとして活躍する「彼」もきっと、不思議な気持ちだったはずだ。だって、ヤクルトとオリックスが日本シリーズで対戦したのは「1995年」だったんだ。忘れられるはずもないもんな。

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作曲生配信!
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成瀬英樹
成瀬英樹
6月12日 10:10

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Sail Away!〜僕のファイターズ大航海日誌 #40
メンバー クリエーターズ 成瀬英樹ゼミ 〜プロ作曲家養成〜 成瀬英樹ゼミ 分割プラン 旧プロ養成コース
成瀬英樹
成瀬英樹
6月11日 13:58

今日は「わさび」に呼び出されて、すすきの駅近くのスタジオでコライトセッションをしたよ。「コライトセッション」なんつっても、あんたにはわかんないか。一緒に作曲をするって説明で大丈夫かな。
 

シンガーソングライターの「わさび」と知り合ったのは、ゼロ年代の後半だった。彼女がデビューのきっかけを掴んだあるオーディションがあって、あたしは審査の幕間に歌うゲストシンガーのバンドのギタリストとして、その会場にいた。そこで「10代だけのコンテスト」とかじゃなく、ましてやバンドもソロも一緒くたで審査される中で、まだ高校生だったわさびがギターの弾き語りで優勝したことに、あたしマジで驚いたんだ。
 

他にプロ顔負けの「大人の知恵の入った」派手なバンドがいくつも出場していたのによ。オーディションなんてもの、ろくなもんじゃないって思ってた部分、あたしにもあったからさ、捨てたもんじゃないな、見てくれる人もいるんだなって、心底感心したのよ。
 

わさびは札幌の高校を卒業すると、都内の大学に入学。時を同じくしてシンガーソングライターとしてメジャーデビューした。彼女、あたしが書いた女性シンガーの曲を好きでいてくれたらしく、なんだかんだで友達になったの。あたしも、わさびが書く曲や彼女の声が好きだし。ずいぶん歳が離れた友達だけど、不思議になんでも話せるし、ウマがあうのよね。
 

あれから10年以上流れて、あたしはいろいろあってこうして北海道に流れ着いて、毎日曲を書いて、エスコンで野球を観てる。わさびはシンガー活動の幅を広げながら、ソングライターとしても大活躍してる。わさびが30過ぎたわけだから、あたしもとっくに50の中盤よ。
 

それでもこうして「一緒に曲を作りましょうよ」って、声をかけてもらえるから、あたしは幸せものだよね。あたしのような仕事って「“現役”であるかどうか」が大事だと思うの。古い考えかもしれないけどさ。“現役バリバリ”のわさびとコラボレーションできるから、あたしだってまだまだ現役だよね。
 

近頃じゃ、先にトラックを作って、それにトップラインを乗せることが多いじゃない。あ、トラックっていうのは「カラオケ」のことね。先にカラオケを作っちゃうのよ。まず歌詞があるんじゃないのかって? 今はそんな作り方する人いないのよ。カラオケが先で曲なんて作れるのかって? うん、慣れると簡単なんだ。先に「枠」が決まってるからさ、迷うことがないのよ。トップラインってのはメロディと歌詞のこと。だから現代のコライトっていったら、一人がトラックを作って、一人または数人でトップラインを考えることが多いわけ。
 

でもあたしはやっぱり、ギター一本からメロディと言葉を立ち上げるのが好き。その自由さを愛してる。トラック先行の有利さも現代感も認めた上で、ね。だから、スタジオに入ったら、アコギとシンセが一台ずつ用意されてて、テンション上がったわ。顔突き合わせて楽器を弾いて、一から曲を作ることができるなんて。しかもわさびと。最高じゃない。
 

きっとあたしが呼ばれたからには、わさびにないアイデアをあたしに求めてるんだと思って、役に立てるようなネタを提供しようと、レンタルされたテイラーのアコギをオープンチューニングにしてリフを弾いてた。
 

「あ、そんな感じのがやりたいです」って、わさびが言う。あたしはメロディを乗せてハミングしてみた。そしたらわさび、シンセで続きをザクザク弾きながら、メロディをつけていった。サビのオンコードが効いてて最高だと思ったから、伝えた。
 

キーを調整して「じゃあ録ってみましょう」と、わさびはあたしのギターをMacに繋いで、「ワン、ツー、スリー、フォー」って録音を始めた。わさびもシンセを弾いて同録した。「これBメロなくしてサビにそのまま行っちゃうの、いいかもしれませんね」「うん、あたしもそう思った」なんて、あっという間にご機嫌な曲の出来上がり。ものの20分もかからなかった。わさびとはこういう価値観が合うんだと思うの。「話が早い」ってこと。
 

わさびはMacに向かって、トラックを仕上げようとしてる。イメージを掴めるくらいまで仕上げないと気がすまないのよね。あたしは、彼女が作業してる横で、他にも何個かアイデアを提案できないか思案して、もう二つほどわさびにプレゼンした。
 

ビートルズ『Blackbird』のようなリフを提案したら、わさび、目の前で珠玉のメロディをつけた。敵わないな、ってあたし思った。爽やかな気持ちだった。そして、刺激的。あたしも頑張らないとな、とかではなく、わさびのように、深く音楽に接していたいなって思ったの。言葉にするの、難しいんだけどさ。
 

今日の達くんのピッチング、最高だったよね。7回無失点。4試合投げて防御率が0.34よ。達くんが打たれたとこ、あたしらまだ見たことないのよね。わお。
 

「がたしゅー」こと山縣秀を「道民の孫」と呼ぶセンスは素晴らしいわよね。あのあどけなすぎる顔には抗えないわ。今日も8回ツーアウトからのセーフティバントから追加点を奪えたし、守備も実に「魅せる」のよ。相手から見て、いやらしい選手になってほしいね。
 

去年とは違う形での強さを、今年のファイターズは見せてくれるかも。そんな期待、できるような新しい力の台頭だね。

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完成間近!『大航海は続く』〜僕のファイターズ大航海日誌 #39
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成瀬英樹
成瀬英樹
6月9日 15:34

On The Beachというバンドをやっています。この夏で結成4年になるので、バンドとして、そろそろ立派な活動歴と言ってもいい頃かもしれません。ミュージシャンにとって、「パーマネントなユニット」を持つことの重要性を年々感じています。On The Beach、妙に連帯感があるユニットになってきました。10月にまた東京でライブをやることが決まっていて、メンバー一同、とても楽しみにしています。
 

今回、これまでと大きく違うのは、On The Beachに新しいメンバーが加わったこと。「石崎光」と聞けば、音楽通のあなたなら「ああ!」と思い当たってくれるはず。そう、あの石崎光さんがOn The Beachファミリーの一員になりました。わお! ヒカルン、ようこそ。
 

石崎さんは、英国的繊細なメロディと大胆なコード進行のセンスで知られるソングライター&プロデューサー。その彼が加わったことで、On The Beachは普通のバンドという感じではなく、一つの音楽制作共同体みたいにしたら楽しいんじゃないかって思っているんです。今もソングライティングを手伝ってくれる準メンバーがいたり、ライブには参加しないけれど「名誉的ご隠居(アドバイザー的な立場)」みたいなメンバーがいたりします。
 

その体制で、みんなで新曲を作りました。タイトルは『大航海は続く』。もちろんファイターズの応援歌なんだけど、僕や君のような音楽ラヴァーズの人生もご機嫌に応援してくれる、最高なロックンロールに仕上がったよ。みんなの「ベースボールとロックンロール」なプレイリストにこの曲を加えてくれたら、とても嬉しく思います。
 

ああ、早く聴いてほしいなあ。
 

ここから10月まで、新体制On The Beachの新曲を随時リリースしていきます。作っている僕たちの熱量がまっすぐに伝わるような、最高の「グッド・ヴァイブレーション」を持つ曲だけを厳選してお届けするから、どうか期待していてね。
 

さて、ここからは、言い訳めいた独白。
 

僕は元々、バンドのシンガーとして世に出たわけなんだけど、自分のことをシンガーだと思ったことは一度もなくて。バンドを始めた頃に、僕が作った曲を誰も歌ってくれる人がいなかったから、自分で歌い出しただけ。そんなだから、デビュー後はとても苦労しました。自分という貧弱なボーカリストが歌っても楽曲として成立するように、言葉の語感を整えたり、メロディの運びを滑らかにしたり、いろいろ工夫を重ねました。その苦労は、今思えば結果的に役に立ったと思っています。
 

でもね、30を過ぎてタバコをやめて、50を過ぎてお酒もやめて節制したおかげで、キーが若い頃よりも上がっているんです。いや、歌が上手くなったかどうかは確かに疑問だけど、自分の声の操り方は、数年前のFOUR TRIPS再編時に何かつかんだ感じがある。なんだか、変な言い方だけど、「成瀬」というまあ普通のボーカリストの、それでも最良な部分の出し方がわかったというか。回りくどくて申し訳ないけど、僕は今回、自分の歌を、自分がイメージした通りに歌って残せたって思ってる、ってことが言いたいわけです。
 

それに、いつまでこんな叫ぶように歌うことが続けられるのかもわからないしね。だから、こうして最高な楽曲の一部として自分の歌を残せたことが、とても嬉しいんです。

 

ときめきの彼方へ 大航海は続く

約束のステージへ

高鳴る胸の鼓動がコンパス


僕たちOn The Beachの新曲『大航海は続く』、ご期待ください。

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あなたは阪神ファン?〜僕のファイターズ大航海日誌 #38
成瀬英樹
成瀬英樹
6月9日 12:17

幼い頃、甲子園によく連れて行ってもらったことが、僕の野球の原風景だ。記憶の中での人生初ホームラン体験は田淵幸一のものだったし、掛布雅之は彼のデビュー時から知っている。タイガースのユニフォームを着た江夏をこの目で見ることがギリギリでかなわなかった世代であることが、非常に残念であるのだが。
 

1985年の「バース・掛布・岡田」で日本一になった年、僕は高校2年生で、正直言って自分の人生のことで精一杯で、野球観戦に行く余裕などまるでなかった。それでも、学校帰りの喫茶店やアルバイト先のラーメン屋など、いろんな場所で阪神戦を観た記憶が胸に残っている。ジャイアンツのエース江川と、タイガースの4番掛布との対決を、明石駅の踏切沿いの喫茶店の2階のテレビで観た。あのときは掛布がラッキーゾーンに飛び込むホームランを打ったんじゃなかったかな。駅売りの新聞の見出しも、優勝に向けて日ごとにヒートアップしていたし、クラスでも級友たちが大いに盛り上がっていた。この年、僕はと言えばバンド活動に夢中で、将来はギターを弾いて生きていきたいと、根拠もないフワフワした夢を見ていた。
 

僕がふたたび甲子園に日常的に足繁く通うようになったのは、1992年以降である。「1992」という数字は、僕にとって特別なものだ。タイガースは1985年に日本一を成し遂げてから、またもやおなじみの負のスパイラルに陥っていた。バースも掛布も去り、真弓も岡田も峠を過ぎた。しかしこの1992年のタイガースは、あと1勝で優勝という快進撃を果たした。特に目立ったのは投手力だ。万年エース候補・仲田幸司の突然の覚醒、クローザー田村勤の無双に、湯舟や中込といった若手も一気に伸びた。そして野手陣も若返る。中でも新庄剛志と亀山努の「亀新コンビ」。若さあふれる豪快なプレーが強烈な印象だった。小川洋子の『博士の愛した数式』は、この1992年のタイガースの快進撃とともにストーリーが進む、実に野球愛に満ちた名作である。この年、僕はと言えば、23歳にして組んだバンド「FOUR TRIPS」でメジャーデビューを目論んでいた。勝算などまるでなかったが。
 

僕が一番甲子園に通っていた時期は、2000年から5年間ほどだ。この期間、タイガースは3年連続最下位の暗黒期から脱し、2度の優勝を果たした。「野村が育て、星野が勝たせ、岡田が受け継いだ」時期である。個人的には、井川慶の登場にショックを受けた。生え抜きの投手で、久しぶりに「エース」と呼べる大活躍を見せてくれたからだ。そしてこの頃、僕はと言えば、受かるあてもないジャニーズやエイベックス系の楽曲コンペに応募しては落選を繰り返す暗黒期。まだ幼かった娘のあどけない笑顔と、野球という「癒し」がなければ、僕はこの季節を耐え抜くことはできなかった。
 

こうして、甲子園球場とともに育ってきた僕であるが、自分のことを「阪神ファン」と自称したことは一度もない。「セ・リーグでは阪神が好き」とか「常に2番目に好きな球団」などと言って逃げている。
 

2000年の秋、野球好きが集まるいつもの飲み屋で、僕は仲間たちとわいわいやっていた。イチローと新庄がメジャーに挑戦することが決まった時期で、話題はその辺でもちきりだった。今では考えられないことだけど、日本で7年連続首位打者を奪ったイチローでさえ、メジャーに行ったら3割すら打てないだろうというのが、野球好きの間でも定説だった。「2割8分打ったら御の字だろう」と。大のイチロー贔屓の僕でさえ、そのくらいの見立てだった。
 

ましてや新庄である。ニューヨーク・メッツやと? 何をまた寝ぼけたこと言うとんねんと、僕の周りの世論はそんな感じだ。だけど、僕はエキサイトしていた。なぜなら、僕がこの目で見た一番すごい外野手(イチロー)と、その次にすごい外野手(新庄)がまとめてメジャーリーグに挑戦するのだ。結果がどうあれ、その「気持ち」がかっこいいと思った。
 

「新庄、メジャーでどのくらい打つかな?」と僕が阪神ファンの友人に水を向けたときの、彼のひと言を忘れることができない。お前は一体何を言っているのだ、という顔をして、彼は僕に言った。
 

「わしはな、新庄がどこ行こうが全然関係ないんや。わしは『阪神』が好きなんや。それだけや」
 

素敵じゃないか。「阪神ファン」とは、こうした人たちのことを言うのだ。