blog

家族の肖像〜僕のファイターズ大航海日誌#22
成瀬英樹
成瀬英樹
4月28日 20:12

春の日曜日。息子たち二人の手を握りながらエスコンフィールドへ向かう道は、ゆっくり温まっていく空気の匂いで満ちていた。淡い陽射しが肩にふわりとのり、頬のあたりで春が深呼吸をしている。まだ午前中なのに、スタジアムの外周にはスカイブルーのユニフォームが柔らかな波のように揺れ、遠くで売り子の声がかすかに弾んでいた。子どもたちは胸の奥で鳴る鼓動を追いかけるように応援バットを打ち鳴らし、小さな靴音を跳ねさせて先を急ぐ。私は「転ばないでね」と声をかけながら、同じリズムを刻む自分の鼓動を聞いていた。

 

QRコードを読み取る小さな電子音と同時に、スタンドの向こうに芝生と赤土のコントラストがひらけた。眩しさに目を細めると、緑の息づかいが肺の奥まで届くようで、ふっと心が軽くなる。子どもたちは「わあ、海みたい」と声を上げ、私は「ほんとね」と笑った。海という言葉を口にした瞬間、はるか昔の夏休みが潮の匂いと一緒に胸の奥からこぼれた。

 

外野ライトスタンド一階席。フェンス越しに見えるフィールドは、地図のない旅への入り口みたいだ。隣の席には黒縁眼鏡の男性がひとり、膝の上のiPadに静かにペンを走らせている。私は軽く会釈して「今日はよろしくお願いします」と声をかける。男性は驚いたように目を上げ、すぐに穏やかな笑みを返してくれた。「こちらこそ。お子さんたちも楽しみですね」――その言葉は春風みたいにやわらかく、私の緊張をひとひら溶かしてくれた。

 

選手紹介が始まるとスタンドの空気がふわりと膨らむ。名前が呼ばれるたび、小さな手のひらがパチンと弾け、歓声が波紋のように広がった。長男のお気に入り、万波中正の名前が響くと、彼は目を輝かせて立ち上がる。次男も叫ぶ。「まんなみ、がんばれー!」その声は空を泳ぐ風船のように軽く、遠くまで飛んでいった。

 

プレイボール。ファイターズ先発の金村くんは立ち上がりに苦しみ、マリーンズに先制点を許した。ファイターズはすぐに追いつき、一時は同点に持ち込んだものの、中盤に再びリードを広げられてしまった。劣勢の試合だったけど、子供たちはグラウンドの攻防に夢中だった。

ふと隣の男性の手元に目をやると、iPad にサラサラと打球の行方を特別な数字やマークで記している。「いつもそうやってスコアをつけているんですか?」と尋ねると、男性はペン先を止めて微笑んだ。「スコアをつけないと、野球を見た気にならないんです」――その瞬間、私の中で昔の夏がパッと弾けた。あの頃、父もテレビで野球を観ながら、紙の上で鉛筆を動かしていた。飲みかけのビールの匂い、背中に感じていた扇風機の風、遠くの雷鳴。すべてが甘やかな記憶の水面に浮かび上がった。

 

五回裏、ファイターズにチャンスが訪れた。二死一、二塁で打席に立ったのはレイエス選手。アナウンスが「レイエス!」と告げられると、スタンドから期待を込めた拍手が湧いた。私たち親子も身を乗り出し、子どもたちは「レイエス、昨日を思い出して!」と声を張り上げる。前日の試合で彼は勝ち越し弾を放っていたのだ。ピッチャーがセットに入り、球場は一瞬静まり返る。だが渾身のスイングは空を切り、レイエスは三振に倒れた。ため息が漏れる。それでも子どもたちは「ナイスファイト!」と手を叩いた。

 

七回表が終わる頃、スタンドには心地よいざわめきが広がっていた。どこからか、キャラメルポップコーンの甘い香りが漂ってきて、エスコン・フィールドのガラスの外壁から取り込まれた春の夕暮れの光と混ざり合って、この球場独特の空気に包まれていた。子供たちは飲み物を片手に、芝生の向こうに広がる勝利への期待を夢見てはしゃいでいた。

 

けれど反撃はあと一歩届かず、試合は静かに終わった。スタンドに残るのは拍手と、最後まで諦めなかった鼓動の余韻だけ。私は目頭が熱くなり、小さな手を強く握りしめた。隣の男性が軽く拍手し、うなずく。「惜しかったですね。でも、いい試合でした」その声は夕暮れに溶けるリコーダーの音色のようにやさしかった。

 

観客が立ち上がり、通路へ流れていく。私は荷物をまとめつつ「子どもたちにも忘れられない日になりました」と伝える。長男は深く頭を下げ、「ありがとうございました!」と声を張った。男性は「また球場で会いましょう」と微笑む。その笑顔に父の面影を重ね、胸がじんわり滲んだ。

 

エスコン・フィールドを出ると、茜色が空の端から滲み始めていた。万波を真似して小さなバットを振る息子たち。手に残るあたたかな重み。顔を上げると、透明な空が静かに夜の色へ滑っていく。歓声、白いボールの軌跡、子どもたちの笑顔――それらは胸の内側でゆっくり発光を続けている。私はその光をそっと抱きしめながら、いつかまたここに帰ってくるだろう未来の自分に向かって、小さく手を振った。