blog

あなたは阪神ファン?〜僕のファイターズ大航海日誌 #38
成瀬英樹
成瀬英樹
6月9日 12:17

幼い頃、甲子園によく連れて行ってもらったことが、僕の野球の原風景だ。記憶の中での人生初ホームラン体験は田淵幸一のものだったし、掛布雅之は彼のデビュー時から知っている。タイガースのユニフォームを着た江夏をこの目で見ることがギリギリでかなわなかった世代であることが、非常に残念であるのだが。
 

1985年の「バース・掛布・岡田」で日本一になった年、僕は高校2年生で、正直言って自分の人生のことで精一杯で、野球観戦に行く余裕などまるでなかった。それでも、学校帰りの喫茶店やアルバイト先のラーメン屋など、いろんな場所で阪神戦を観た記憶が胸に残っている。ジャイアンツのエース江川と、タイガースの4番掛布との対決を、明石駅の踏切沿いの喫茶店の2階のテレビで観た。あのときは掛布がラッキーゾーンに飛び込むホームランを打ったんじゃなかったかな。駅売りの新聞の見出しも、優勝に向けて日ごとにヒートアップしていたし、クラスでも級友たちが大いに盛り上がっていた。この年、僕はと言えばバンド活動に夢中で、将来はギターを弾いて生きていきたいと、根拠もないフワフワした夢を見ていた。
 

僕がふたたび甲子園に日常的に足繁く通うようになったのは、1992年以降である。「1992」という数字は、僕にとって特別なものだ。タイガースは1985年に日本一を成し遂げてから、またもやおなじみの負のスパイラルに陥っていた。バースも掛布も去り、真弓も岡田も峠を過ぎた。しかしこの1992年のタイガースは、あと1勝で優勝という快進撃を果たした。特に目立ったのは投手力だ。万年エース候補・仲田幸司の突然の覚醒、クローザー田村勤の無双に、湯舟や中込といった若手も一気に伸びた。そして野手陣も若返る。中でも新庄剛志と亀山努の「亀新コンビ」。若さあふれる豪快なプレーが強烈な印象だった。小川洋子の『博士の愛した数式』は、この1992年のタイガースの快進撃とともにストーリーが進む、実に野球愛に満ちた名作である。この年、僕はと言えば、23歳にして組んだバンド「FOUR TRIPS」でメジャーデビューを目論んでいた。勝算などまるでなかったが。
 

僕が一番甲子園に通っていた時期は、2000年から5年間ほどだ。この期間、タイガースは3年連続最下位の暗黒期から脱し、2度の優勝を果たした。「野村が育て、星野が勝たせ、岡田が受け継いだ」時期である。個人的には、井川慶の登場にショックを受けた。生え抜きの投手で、久しぶりに「エース」と呼べる大活躍を見せてくれたからだ。そしてこの頃、僕はと言えば、受かるあてもないジャニーズやエイベックス系の楽曲コンペに応募しては落選を繰り返す暗黒期。まだ幼かった娘のあどけない笑顔と、野球という「癒し」がなければ、僕はこの季節を耐え抜くことはできなかった。
 

こうして、甲子園球場とともに育ってきた僕であるが、自分のことを「阪神ファン」と自称したことは一度もない。「セ・リーグでは阪神が好き」とか「常に2番目に好きな球団」などと言って逃げている。
 

2000年の秋、野球好きが集まるいつもの飲み屋で、僕は仲間たちとわいわいやっていた。イチローと新庄がメジャーに挑戦することが決まった時期で、話題はその辺でもちきりだった。今では考えられないことだけど、日本で7年連続首位打者を奪ったイチローでさえ、メジャーに行ったら3割すら打てないだろうというのが、野球好きの間でも定説だった。「2割8分打ったら御の字だろう」と。大のイチロー贔屓の僕でさえ、そのくらいの見立てだった。
 

ましてや新庄である。ニューヨーク・メッツやと? 何をまた寝ぼけたこと言うとんねんと、僕の周りの世論はそんな感じだ。だけど、僕はエキサイトしていた。なぜなら、僕がこの目で見た一番すごい外野手(イチロー)と、その次にすごい外野手(新庄)がまとめてメジャーリーグに挑戦するのだ。結果がどうあれ、その「気持ち」がかっこいいと思った。
 

「新庄、メジャーでどのくらい打つかな?」と僕が阪神ファンの友人に水を向けたときの、彼のひと言を忘れることができない。お前は一体何を言っているのだ、という顔をして、彼は僕に言った。
 

「わしはな、新庄がどこ行こうが全然関係ないんや。わしは『阪神』が好きなんや。それだけや」
 

素敵じゃないか。「阪神ファン」とは、こうした人たちのことを言うのだ。