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僕のファイターズ大航海日誌 #46 at 東京ドーム
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成瀬英樹
成瀬英樹
6月21日 10:41

北山が先発と知った瞬間、『勝てる』と思った。でも、これほどの快投は想像以上だった。

6月19日、木曜日のナイター。場所は東京ドーム。交流戦のジャイアンツ対ファイターズで、うちの北山亘基が9回1アウトまでジャイアンツ打線をノーヒットに抑えて、結果ワンヒッターを達成。いやもう、見事だったわ。(ちなみに本場アメリカじゃ、ノーヒッターだけじゃなくワンヒッターもきちんと記録になるんだ)
 

この日、あたしの隣には外国人女性の二人連れが座っててね。まあよく飲むのよ、ビール。1イニングに1杯ペースでビールを空ける二人。盛り上がってる彼女たちがときどきあたしにちょっかいをかけてくるもんだから、「ちょっと飲みすぎじゃない?」って言ったら「あなたも飲む?」だって。あはは──。


9回に入ったころ、球場の空気が明らかに変わった。それまでの緩やかなムードが、ぴりっと引き締まった空気に一変。ひとつひとつの投球に歓声とため息が交互に飛び交って、胸がぎゅうっとなった。あたし、もう40年以上野球を観てきてるけど、ノーヒットノーランにはまだ一度も立ち会ったことがないのよ。だから心の中では「どうか決まって…!」って祈るような気持ち。


ついにこの目で夢みたいな瞬間を見られるのかもしれない。ドキドキしながら北山を見つめていた。球場全体がその瞬間を待っている、そんな空気だった。一方で隣の二人はずっと陽気。ふと思ったの。「あれ、この子たち、もしかしてノーヒットに気づいてない?」って。


そこで聞いてみた。「ねえ、いまノーヒットって知ってた?」案の定「なにそれ?」って返された。しょうがないから翻訳アプリで文章を作って見せた。


Just two outs away from a rare no-hitter―something even someone like me, who’s been going to the ballpark for 40 years, might never get to see.

(あと2アウトで、すっごくレアなノーヒッター。あたしみたいに40年も球場通ってても、なかなか見られないやつ)


「わーすごい!」って拍手してくれたけど、たぶんまだピンと来てなかった。ノーヒットって何?という顔をしていた。「わかってる人にしかわからない感動」ってことか。ちょっとだけ考えちゃったな。


まさにその瞬間、ジャイアンツの大城がライトスタンドにホームラン。ボールが悲鳴を切り裂くように飛んでった。でもね、あたし妙に爽やかな気持ちになったの。ファイターズファンたちは北山に拍手を送っていたわ。「ここまで楽しませてくれてありがとう。あと少し、がんばって!」ってね。


あたしには北山の気持ちがすごくわかる。ほんの数センチ先にノーヒッターという栄光があった。あと2アウト取れていたら、彼の人生はきっと大きく変わっていたの。あたしもひと月ほど前、大きなチャンスをあと一歩で逃したばかり。自分のベストを尽くしたのだからそれでいいじゃないかって、いつものあたしなら思えるんだけど、今回は思い切り悔しがろうと思ったの。あと数センチであたしの人生も確実に変わってた。悔しい。どうしてチャンスをものにできなかったんだろうって。


北山、試合後のインタビューの表情が固かった。カメラ越しでもその悔しさが伝わってきた。チームが勝ててよかったけど、悔しい。いつか完全試合を成し遂げるピッチャーになる。彼はそう言った。もうドラフト8位のアンダードッグなヒーローではないんだ。あたしもがんばんなきゃなって、涙が出てきたわ。さ、そろそろこっちも本気出しますかってね。また北山から元気もらったわよ。


それにしても東京ドーム。エスコンフィールドと比べちゃうと申し訳ないけど、やっぱりあちこちくたびれてきてる感じ。しかも相手がファイターズなのに満席じゃないなんて。平日とはいえ、ちょっとびっくり。同じセ・リーグの甲子園やハマスタだったら、どんな相手でも簡単にチケット取れないでしょ? エスコンだってヤクルト戦も広島戦もすごかったし、阪神戦なんてプラチナチケットだったわ。


まあ、観客の入りってチーム事情もあるけどね。あたしでも知ってるくらい、今のジャイアンツはあんまり良くないみたいだし。WBC戦士の岡本が抜けたのは痛いよね。でも、それだけでここまで打線が薄くなるって……チーム作りって難しいもんね。


で、この日のファイターズはというと、びっくりするほどの布陣。清宮もレイエスも野村もいなくて、いわば「飛車角落ち」、いや「王」までいなかった。でも、それで勝っちゃうんだから。ファイターズ、見事だったわ。


ワンヒッター達成、おめでとう、北山。そしてほんとにありがとう。東京で輝いてる姿を見て、あたし、なんだか胸が熱くなっちゃった。だって試合のない日にエスコン行ったら、北山がひとりで黙々と練習してるの、何度も見てるからね。


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「めくらやなぎと眠る女」
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成瀬英樹
成瀬英樹
6月19日 8:38

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僕のファイターズ大航海日誌 #43 #44 #45
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成瀬英樹
成瀬英樹
6月16日 16:07

ここ北海道で、ファイターズとカープの試合を観るようになるなんて、思ってもみんかったわ。ほいでもアレやな、思ってもみんことが起きるんが人生やし、野球やな。こんな7点差ひっくり返すことんなんてあるか? 見たことないわ。僕いっつもiPadでスコアつけてんねんけど、この日は6回までで充電切れてもてん。不思議なもんや。そんなこといっつもないねんけどな。せやから、あの猛烈な逆転劇は、記録されてないねん。それでもええねん。この空白のスコアシートは『充電が切れた』って記録でもあるんや。


広島って、僕、好きやねん。
 

昔、バンドでデビューしたことあって、そのときキャンペーンライブかなんかで広島に行ったんよ。97年のこっちゃ。ナミキジャンクションってハコやった。ライブのこととか、正直あんまり覚えてへんねんけど、夜みんなで食べに行ったお好み焼きがめっちゃ美味くてな。それ以来、お好み焼きって言うたら広島やと思ってる。大阪のんも悪ないけど、広島のお好みはほんま最高やと思う。
 

ほいで昔からなんやろ、広島出身のミュージシャンに好きな人が多いねん。矢沢永吉さんも、吉田拓郎さんも、吉川晃司さんもそうやろ。その中でも奥田民生さんが特に好きやねん。ユニコーンの彼もええけど、ソロになってからのんも、すごいええ。僕は昔の広島市民球場に二回行ったことあるけど、そのうちの一回は野球やのうて、奥田民生さんのライブやった。あの球場のど真ん中に一人でギターの弾き語りで民生さんが歌うんや。なんやろなあ、彼の広島への想いとか、カープへの想いとか、そういうのが音の塊になって飛んでるみたいやった。空にはヘリが、でっかい音たてて飛んでてな。
 

民生さんの声とヘリの音と、広島市民球場の夜の空。曲はなんやったかな、『The STANDARD』やったかもしれん。忘れられへん夜や。
 

市民球場に行ったもう一回はな、前田智徳の2000本安打を見に行ったときや。僕の弟が広島に縁ある人と結婚してて、その頃広島に住んでたから、弟の家族と僕とで一緒に観に行った。2007年の9月のことや。前田は7回までに4打席まわってきたけどヒット出んくて、今日はもう無理やろなって感じになっててん。んでも8回裏に、他のメンバーが執念で前田まで回してな、ほんで前田も見事にヒット打ちよったんや。市民球場そらもう、大騒ぎや。印象的やったのが、4番を打ってた新井貴浩(今のカープの監督やね)が、しぶとく粘ってフォアボール取ったんよ。「絶対前田さんまで回す」っていう気持ちが、よう出てたフォアボールやった。なんか、妙によう覚えてんねんな。
 

マツダスタジアムにも一回だけ行った。エスコンができるまでは、マツダが日本一の球場やった思う。あそこは何て言うても、広島駅から歩いてすぐってとこがええよな。都会のど真ん中に、ちゃんと球場がある。歴史的にも広島って町の発展を考えると、カープって球団はほんま外されへん存在やなって思う。二十歳そこそこの頃、旅行で尾道に行ってな、旅館に泊まったんよ。仲居さんが布団敷きに来てくれたときに、「やっぱり広島の人ってカープファン多いんですか」って僕、ちょっと間の抜けた質問してしもたんよ。そしたら人の良さそうな仲居さんが、ちょっとムキになって「カープを応援せん人は、広島県民やないです」って言わはった。
 

で、マツダスタジアムに行ったのは、2010年4月2日や。その日付をちゃんと覚えてるのには理由がある。この日行われた「広島対巨人」の試合前、巨人のコーチやった木村拓也が、ノック打ってる最中に倒れはってん。僕が球場着いたときには、ホームベースのあたりに、両チームの選手やスタッフが集まっててな。最初は誰かレジェンドでも来て、みんなで挨拶でもしてるんかと思った。でもそのあと救急車が入ってきて、ああこれは普通ちゃうなって思った。そんときは、まさか木村拓也がクモ膜下出血で倒れたなんて知らんかった。たしか試合中にネットのニュースか何かで知ったはずや。
 

木村拓也って、名前が名前やから、選手時代から人気あったけど、そのどこでも守れるユーティリティ性と渋いプレイスタイルで、カープ時代からほんまチームに欠かせへん存在やった。巨人にトレードで移ってからは、より一層スタイルに磨きかかってて、引退後は巨人のコーチになったばっかりやった。38歳やった。倒れたその日から数日後、彼が亡くなったって聞いて、僕はすごく悲しかったし、同時になんか啓示を受けたような気持ちにもなった。お子さんもまだ小さかったらしいし、彼の人生はこれからってとこやったと思う。ほんまに無念やったやろな。人って、どこでどうなるかわからん。僕も、このもらった「人生」っていうチャンスを、ちゃんと活かさんとあかんなって思ったんよ。
 

ほんでも、よりによってカープとジャイアンツの試合の前に、しかも広島で倒れはるって…ようがんばってはった人生やったから、お世話になったみんなの前で倒れはったんやな。そういうとこまで、実に木村拓也やなあって、なんか忘れられへんねんよな。

 

 

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神宮の彼〜僕のファイターズ大航海日誌 #41 #42
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成瀬英樹
成瀬英樹
6月13日 10:54

ヤクルト・スワローズというチームには、個人的に愛着がある。東京に住んでいた頃は、よくふらりと神宮球場まで行ったものだ。甲子園とはまた違った歴史の重さを感じさせてくれる、このいい感じにヴィンテージな野球場は、都会のど真ん中に位置する。最寄りの駅も複数の選択が可能だし、割と広めの駐車場が隣接しているのも非常にありがたい。


村上春樹さんがスワローズファンであることは有名だけれど、春樹さんが小説を書くきっかけになった「閃き」を得たのが、1978年の開幕試合でスワローズ往年の名選手デイブ・ヒルトンが放った二塁打だったことは、ご存知だろうか。結果的に「文学史を変えた二塁打」を外野席で観戦していた村上春樹青年は、その光景に「僕にも小説が書けるかもしれない」と感じ、万年筆を購入し、それで小説を書き始めたのだ。そう、ベースボールには物語が宿っている。
 

2006年に僕は「再上京」した。一度目の上京は1996年秋。FOUR TRIPSというバンドでデビューするためにメンバー4人、西荻窪の街でそれぞれ部屋を借りて住んだ。翌年の春にリリースが決まっていた我々のデビュー曲には、TBSのドラマ主題歌のタイアップがついていて、大きなヒットになることが期待されていたが、結果そうはならなかった。初回のビッグチャンスを逃した我々に二度目はなかった。2000年に一旦、神戸に帰ることにした。
 

地元に戻った我々FOUR TRIPSは、神戸駅近くの『JUKE BOX』という店で週一回ほどの出番を得た。1年ほどの期間、大いに楽しく演奏させてもらった。毎週2時間超のライブをこなすため、そして通りすがりの酔客をこちらに振り向かせるために、我々はカバー曲のレパートリーを充実させていった。そのうち、毎回ワンテーマでカバーナイトをやるようになっていった。ビートルズ、ストーンズなどは言うに及ばず、ニール・ヤング、はっぴいえんど、松本隆ナイトなんてのもやったりした。神戸の先輩ミュージシャンを呼んで、ジャムやクラッシュをまとめて演奏したりも。
 

メンバーで手分けして耳コピしてコード譜を用意して、本番で初めて合わせるようなことも増えた。それまでは、オリジナル曲を決められたセットリスト通りにやるようなライブしか経験がなかったので、今にして思えばこの「バー・バンド時代」は僕たちにとって、とてもエキサイティングな修行の場だった。
 

その『JUKE BOX』をアルバイトとして手伝っている男がいた。はクラブDJやFMラジオのDJとして神戸では知られた人物で、年齢は僕と同い年。我々はそれまでも顔見知りではあったが、親しく話すようなことはなかった。けれど、ここで会ったことをきっかけに、お互いが大好きだった野球の話などをつまみによく飲むようになった。運動神経抜群の彼は、僕の草野球チームにもときどき強力な助っ人として参加してくれたりもした。
 

当時の我々は30を少し過ぎたばかり。僕は音楽家として、彼はトークのプロとして。次なるチャンスに備えて、じっくりと爪を研いでいた。今度こそ、しくじらないよう、うまくいくように。今はじっくり力をためる時期なんだぜ、必ずまたチャンスは来る。だからきっと「いつかその日」を待ち望みながら、僕らは闇雲に毎週演奏し、彼はカウンターでカクテルを作り続けた。そして僕たちは一生分とも思えるくらいの量のビールを飲んだ。
 

2001年の秋に、僕が所属していた事務所が倒産して、モラトリアムな日々は突然終わった。バンドは空中分解し、『JUKE BOX』にも行かなくなった。僕はここから数年かけて作曲家になるべく修行を始めることになる。よくある苦労話だ。ありふれている。しかしながら、それが「我がこと」となると、そう呑気に相対化しているわけにもいかない。「ありふれた苦労話」は当人にとっては悲痛な日々だ。なんとか一、二曲をリリースすることができたのが2006年。僕は家族とともに再上京し、もう一度「東京」で挑戦することにした。
 

まだまだ「専業」とは行かなかったが、ようやく「作曲家」としてのキャリアを築き始めた2008年の春、神宮球場で僕は「彼」と突然、再会した。なんと彼はヤクルト・スワローズのスタジアムDJとしてそこにいたのだ。これ以上ぴったりな人選も、なかなかないだろうと思った。彼の活躍を心の底から嬉しく思ったし、誇らしく思った。
 

そういえば、最近いつ神宮に行ったかなと考えたら、2022年の日本シリーズ第7戦だった。オリックスがヤクルトを下し、久しぶりの日本一になったゲームだ。考えてみたら不思議なものだと思った。オリックスは神戸にルーツを持つチームで、「あの頃の神戸」の象徴のような存在でもある。そのオリックスと、ヤクルトが日本シリーズで対戦するなんてね。
 

今でも神宮のスタジアムDJとして活躍する「彼」もきっと、不思議な気持ちだったはずだ。だって、ヤクルトとオリックスが日本シリーズで対戦したのは「1995年」だったんだ。忘れられるはずもないもんな。

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成瀬英樹
成瀬英樹
6月12日 10:10

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