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プラハに3泊。レギオジェットという長距離鉄道に乗ってウィーンまで4時間、こちらで3泊。最後にもう一度鉄道でプラハに戻って1泊、というのが、僕たちの旅の基本的なプラン。今は11月17日の早朝5:37、「もう一度鉄道でプラハに戻る朝」を迎えている。
プラハでもウィーンでも、僕たちは本当によく歩いた。基本的にブラハの気温は札幌と同じくらい寒い。プラハ城まで歩いた際には冷たい雨まで降っていた。それでも空に向かってソリッドに建つ大聖堂の圧倒的な外観と、その荘厳さに言葉を失うほど感動した。
プラハは散歩に適した街だ。美しい街の景観はどこまで行っても変わらない。トラムの線路にだけ気をつけていれば、交通量もさほど多くないし、何より石畳を歩く快適さよ。
もちろんある程度の名所は見て回る。カレル橋、カフカの生家跡とすぐ近くのギャラリー。世界中どこへ行ってもスターバックスに入る僕だが、この街のスタバは外観が街に調和している、あの「緑」も控えめなのだ。
あてもなく歩いているとすぐに小さな路地に入る。この街は路地の街と言っていい。日本のアラカルト的混沌とした街並みと比べると、本当におとぎの国に来たような気持ちにさせられる。
しかしながら、そのおとぎの国で人々はリアルな生活を送っている。ビールを飲んで酔っ払って道端で大声で怒鳴りあう男女。道行く人々は男も女もよく煙草を吸うし、街中のいたるところに灰皿が置かれている。そして、鳩。
プラハは鳩が多い街だ。中世に建てられた建築物には鳩が休むのに適した「くぼみ」が構造的に多いから、かどうかは定かではないが、実際に建築物をよく見るとたくさんの鳩が羽を休めていた。鳩に愛されたプラハ。
この街の最高の観光資源は「街並み」。僕たち親子はただただ歩き回るだけで、最高に楽しい。
由緒正しい「カフェインペリアル」の朝食、最初は「インペリアルモーニング」、2度目はブッフェにした。新鮮なパンや卵料理をたっぷり楽しむことが出来た。ここはグラノーラが絶品だったなあ、また食べたい。
娘が買った、「カフカが路地を歩いているイラストが描かれたバッグ」に描かれたプラハの街が、そのまま僕のプラハの街のイメージだ。ひんやりしていて、凛としていて、治安はいいんだろうけど、少しだけダークな感触もある。
歌を作ったり、何か描いて暮らせるのなら、この街は最高かもしれないな。ただただ、街を歩くだけで、何か素敵なアイデアが浮かんでくるだろう。
レギオジェットで4時間、後ろ向きの座席で田園風景を突っ切り、ウィーンへ。自分がオーストリアに来ることになるなんて、本当に考えてもみなかった。
しかし何より、この電車の中では来年リリースを目指す楽曲の修正作業を行った。クライアントさんから来るリクエストを作家に送る。クライアントさんのアイデアを咀嚼して作家に伝えるのが僕の役目だが、いかんせんヨーロッパ、いかんせん列車の中。思うようにはなかなかいかないが、なんとか乗り切った。
この楽曲がリリースされた暁には、おいしい裏話のネタとして、たっぷり話して差し上げたいな。
さて、ウィーンでの3泊4日も、歩くことと食べることを非常に楽しんだ。
初日は旅の疲れを癒すべく、早めに休むことにする。ホテルの一階がカフェになっていて、いい感じで賑やかでいい。部屋は狭いんだけど、コスパを上げるためにしっかり工夫されていて、不快なことはまったくない。
翌日、街を散策。ウィーンの駅近くでクリスマスマーケットもオープンしていた。ウィーンで「リトル・セイント・ニック」を聴くのは不思議な感じがする。まだ朝だったので、夜来ようねということになる。
街の真ん中あたりまでは30分ほど歩く。僕はどこの街に行ってもゆっくり歩いて回るのが好きだ。どうやら娘もそのようで嬉しい。ダウンタウンに着くと、娘がゆっくりショッピング、僕はカフェで待つことにする。またしてもスターバックスだ。ついにウィーンのスタバにまで来た。
「カフェ・セントラル」は長蛇の列だが、せっかくなので並んで待つ。30分ほどで中に通される。伝統を感じるが、敷居が高いわけではなく、誰もがくつろいでいる。ピアノの生演奏もクラッシックをベースにしているが、時にエンタメっぽいフレーズも弾いたりして、場内から拍手喝采を浴びることもある。僕はホットサンドを、娘はケーキをいただく。美味。
その後歩いて「ザッハー」へ。ザッハトルテ発祥のカフェらしい。こちらも繁盛していた。僕は濃くて美味しいコーヒーをいただく。
結局この日は朝から夜まで出っ放しで13キロ歩いたとか。いやそんなには感じなかった。
3日目、シェーンブルン宮殿まで地下鉄で足を伸ばす。植物園もたっぷりと楽しめるものだが、何と言っても動物園だ。世界一古い動物園として知られるここ、ゆっくり回ると雄に3時間はかかる広さだ。ジョン・アーヴィングの「熊を放つ」の舞台になったそうだ。随分昔一度読んだことがあるはずだが、よく覚えていないが、確かに動物園の話だった気がする。
おなじみのキリンやライオン、ゾウにトラなど(パンダはリニューアル待ちでお休み期間)を楽しむ。山羊、羊、狼、猪、牛に豚、うさぎにコウモリもいた。白くないシロクマ、めちゃエンターテイナーなテナガザル。アリクイのルックスにかなりの衝撃を受けた。フラミンゴもよかったね。
宮殿近くのカフェで休憩しながら、夜ご飯を検索。せっかくだから本場の「ウィンナーシュニッツェル」を食べようと地下鉄を乗り換えて向かう。繁盛店だから当日の予約が取れなくて、行ってみるかと飛びこみで向かったが、ハイテーブルがひとつ空いていてラッキーだった。ウィンナーシュニッツェル、仔牛のカツレツ。美味い。
そして、夜のクリスマスマーケットの美しさ。クリスマスというイベントがシンプルに土地に溶け込んでいると言うのか。僕たちで言うなら「盆踊りの縁日」的な感じ、あたたかく家庭的だ。真冬の寒さにも関わらず、人でにぎわうマーケット。向こう側に大きな月が出ていた。今ごろ、日本でもみんなこの月を見つめているのだろうか。ただただシンプルに、そういうことに感動してしまう。
ウィーン駅中の素敵なカフェのモーニングが本当に素晴らしい。パンが三種類、バターをつけて食べる。蜂蜜、ジャムの小瓶もついているのだが、これが濃密で美味い。半熟玉子に、ハムとチーズがついて来る。コーヒーはポット入りを頼んでたっぷり楽しんだ。結局ここのカフェにも2度お世話になった。
どこのカフェに行っても、通常よりは長めの時間滞在した。旅行中に本を読むことも、我々親子の目的の一つでもあるから。旅と読書は相性がいい。「あそこであれを読了したな」という思い出は一生ものだ。娘は「百年の孤独」を面白い面白いとずっと読んでいる。僕は春樹さんの旅行記「遠い太鼓」(この旅行記の名作を僕は旅に出るたびに読み返している)や「ラオスにいったい何があると言うんですか」や「村上さんのところ」などをKindleで追いながら、ウィーンからプラハに戻る列車内で娘おすすめの「存在の耐えられない軽さ」をKindle購入し読み始める。「プラハの春」を舞台にした恋愛&青春小説の趣き。面白く読み始めている。
さて、今は、最終日の朝である。7泊8日の「突然の」欧州旅行だが、僕は大いに楽しんだ。こんなにも刺激的な旅は人生で初めてだ。この旅を計画しリーダーシップを持って行動してくれた娘のおかげである。娘の人生にとっても、良き思い出の一つに残ってくれたらいいな。
今から、ホテルの朝食を食べてきます。そのあと、少しプラハの街を散歩して、空港に向かうつもりです。
11月11日(月)
プラハ。この街では男も女も、本当によく煙草を吸う。
僕は今、プラハ空港行きの飛行機の中。5時間近く飛んだはずなんだけど、あと7時間41分もかかるんだ。どんだけ遠いねん、プラハ。
昨日もまた、良い知らせがいくつかありました。次の乃木坂46のシングル表題曲の共編曲を、成瀬ゼミ卒業生の「麻尾悠太」くんが勝ち取りました。作曲は杉山勝彦くん!
おめでとう! なんてXでポストしてたら、悠太から電話がかかって来ました。そういう律儀なところも彼の素晴らしいとこ。2003年生まれっていうから、僕の娘より一個下の超若手の彼の才能を見事に伸ばしてくれた杉山くんの采配は見事です。僕も快く送り出せて本当によかったと思う。
そして、ブラハの宿にて。
飛行機の中で長い文章を書くのはとても難しい。僕は飛行機の揺れが苦手で、機内では何も考えられなくなってしまうから。映画を観たりすることも出来ないんですよね、集中出来なくて。オッケー、認めてしまおう。僕は飛行機が苦手だ。何度乗ったとしても。
というわけで今は、ブラハの宿でこれを書いています。11月12日午前5時。結局まったく眠ることが出来ずにプラハに着いたがそれが良かった。一晩熟睡すれば体内時計が一気に切り替わって時差ボケ知らずだ。
なぜ行き先がプラハなのかは僕に訊かないで欲しい。かと言って娘(この旅の首謀者)に訊いても、あなたが納得いく答えは返ってこないだろう。「なんか、感じたんだよね」とはぐらかされるのが関の山だ。
この街の人々は歩きながら煙草を吸う。この街では男も女も、本当によく煙草を吸う。街角で、U2やシンディ・ローパーがガンガン聴こえる。
おやすみ。
お疲れ様です!
僕は今、成田空港から東京駅へと向かうバスの中。17時台のエアーにも関わらず、もう空は真っ暗のナイトフライトでした。揺れの少ない快適な機内で、来週と再来週分をまとめて収録したラジオのチェックをしていました。
そう、ここ数日はラジオのまとめ録りに追われておりました。さすがに3本を録るとなると(しかもインタビューを含む特集ものとなると)なかなか出来上がりイメージが像を結ばす、難産ではありましたが、結果とてもいいものが出来たと自負しております。
そして昨夜はBINGO! 全体Zoom。その直前になかなかになかなかなお知らせがメールと電話で届きました。はい、嬉しい知らせです。才能とは愛しぬくこと。しぶとく、泥くさく。彼の成功はまさに夢。僕たちは夢を売っているのですね。素晴らしいこと。
彼の最後の仕上げを助けつつ、僕も朝までラジオを編集しました。
今日は朝からその仕上げの続きを。大丈夫、結局、きっとうまく行くんだから。
バタバタと新千歳空港に着いて、少し時間があったので、空港内にあるファイターズカフェでハンバーガーを食べました。パンに数字を焼き印してくれるとのことなので、咄嗟に「21番で!」と答えました。清宮幸太郎の背番号がついたハンバーガー、ジューシーで美味しかったよ。
今夜のPOP A to Z はニッキー・ホプキンズ特集のPt2、かなーり画期的な構成になっております。22:30から是非聴いてね!
おはようございます!
昨日の配信は観ていただきましたか? そこでお伝えしたように、今月もなかなかに「濃い」月となりそうです。さまざまな経験を楽しみたいと思いますし、「うたを作る学校」メンバーのみんなに「手紙」を書くような気持ちで、旅先から映像や文章をお届けしますね。
一体どんなことになるのか、楽しみです。
先日。風輪さんのLIVEに出演させていただいた際、大先輩シンガーソングライター「みのや雅彦」さんとご一緒させていただきました。僕のような若輩者にもとても優しく接していただき、大変感激しました。
北海道出身のみのやさん、デビューは1981年、なんと二十歳だったそう。レコード会社はCBSソニー。日本のポップス史が頭に入っていれば、ここまでの話の流れで彼がどれほどレコード会社から期待をかけられていたかがわかります。
同じ北海道出身の松山千春さんと比較されたデビュー当時。みのやさんにとっては憧れの先輩のスタイルを受け継ぐ楽曲を作ることは自然なことだったはずですが、一般には「千春さんに似すぎている」と評価されることが多く、ポジティブな捉え方をされることは少なかったそうです。
(ブルース・スプリングスティーンもデビュー当時は「ボブ・ディランの二番煎じ」と揶揄されたものです。信じられないよね。今、ブルースに対してそんなことを言う人がいたら、そちらのほうが見識を疑われますよね)
そして80年〜81年当時のCBSソニーは、こちらも北海道出身の五十嵐浩晃さんが『ペガサスの朝』を、堀江淳さんが『メモリーグラス』をそれぞれ大ヒットさせていた頃。続く「北海道出身・大型新人・みのや雅彦」さんにレコード会社から大きな期待がかけられるのは自明であります。
「ただ、そこで僕は大きなヒット曲を出すことができなかったんだよ」とみのやさんは言います。
「スマッシュヒットはあったけど、五十嵐さんや堀江さんのような、ビッグヒットを出すことができなかった。でもね、だからこそ、いまもこうして歌を作り歌うことを続けていられるとも、思うんだよね。僕はいまも夢を見ることができているんだ」
風輪さんがステージでカバーをされている『夢しかなかった』は大仁田厚さんに提供するために書かれた楽曲だったそうです。「誰に提供するときでも、僕はいつも自分で歌うことを念頭に作ってる」と言うみのやさんの魂の一曲は、みのやさん自身が歌い続けることによって、数十年後に運命的な出会いの導きで風輪さんの心に届き、いまも僕たちの心を揺さぶるのです。
アーティストリーグ2023の件。双方が良い話し合いをして、納得行く着地点を見つけられることを願っております。僕もボランティア審査員として参加した大会でありますし、「成瀬が審査員だからチャレンジした」アーティストもおられることもSNSで知りましたので、よりそう感じております。
これを機に、このようなイベントを運営する側も、アーティストたちも、結果的に「課金」によって順位を決めるコンテスト形式について考え直すことが必要なのではないか、と個人的には考えております。ファンの方に結果的に経済的負担をかけてしまう、「夢とお金」がごっちゃになってしまったからこその今回の出来事をみて、僕はそう思っています。
エンタメの世界では「絶対」などないし、売れる売れないは往々にして実力+「時の運」でもあります。アーティスト側やマネージメント側がどんなにベストを尽くしたとて、売れないときは売れないんです。逆に10年20年たって評価される才能だってある。
それをコントロールすることはできないのです。
ただ一個、僕たちにはやれることがあります。それは「続ける」こと。信じる心があるのなら、良い作品を作り続け、歌い続けていれば、いつか夢は叶います。
いや、「歌い続ける過程」こそ、が夢。なのではないか? 夢を追い求め、毎日努力を重ねる日々こそが、「夢」なのではないか。僕はいま、心からそう思っています。
そしてあらためて、「歌=Song」という表現形態を一生の生業と決めた14歳の僕の直感を裏切ることなく、生きて行きます。
ソングライターとして生きていられることを、そして、僕が作った歌を聴いて人生がほんの少しでも明るく照らされる方がいらっしゃることを、僕は心から誇らしく思っています。
風輪さん、みのやさんに出会わせていただきありがとうございました。
みのやさん、「歌い続ける覚悟」を笑顔で教えていただきありがとうございました。