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2025年4月

桜は未だ咲かずとも〜僕のファイターズ大航海日誌 #20
成瀬英樹
成瀬英樹
4月26日 23:04

エスコン・フィールドの高い屋根の下、球場内には清らかな光が満ちていた。まだ春浅き四月の北海道。その広がる蒼穹に誘われるように、私と妻はまたここへやってきた。札幌ドーム時代から変わらぬ思いでファイターズを応援してきたが、このエスコンも三年目を迎え、いつの間にか私たち老夫婦の暮らしに溶け込み、心の拠り所となっていた。
 

これまでは外野席のシーズンシートを購入していた。しかし今年は、もっと自由に、気ままに、さまざまな席から試合を眺めたいと思った。その日の気分で場所を選び、球場の異なる表情を味わうのも、また一つの贅沢ではないか。昨日は一階ライトスタンドの後方、通路際にある二つ並びの席に腰を下ろした。
 

前方のいつもの席に、黒縁メガネの男性が静かに腰掛けていた。先日、偶然隣り合ったことがきっかけで、以来自然と挨拶を交わすようになった方である。彼は膝にタブレットを置き、電子ペンで淡々とスターティング・メンバーを書き記していた。彼のおだやかな佇まいに、私たちは親しみ以上のものを覚えていた。
 

「なかなか、調子が上がりませんね」と声をかけると、彼はにこやかに微笑み、「今日は北山、期待しましょう」と穏やかに返してくれた。
 

北山亘基投手──昨年、彼は眩しいほどの成長を遂げた。小柄な体躯から繰り出される剛球には、誰もが驚かされた。ドラフト八位という下位指名の出自をものともせず、堂々と先発ローテーションに食い込んだその姿は、まるで『ドカベン』の里中智を思わせる"小さな巨人"そのものである。
 

エスコン・フィールドは、試合のない日も入場することができる。誰もいないスタンドを背に、ただひたすらに投げ込む北山の姿を、私と妻は幾度となく見かけた。乾いた音が、ひとつ、またひとつ、空に吸い込まれる。努力とは声高に誇示するものではなく、こうしてひたむきに積み重ねられるものなのだと、その背中は静かに語っていた。
 

試合は、劇的な幕開けを迎えた。初回ファイターズの攻撃。一番打者に起用された淺間が、初球を叩き、先頭打者ホームランを放った。スタンド中が歓喜に包まれ、私も思わず立ち上がった。黒縁メガネの彼もこちらを振り返り、うれしそうに微笑んだ。
 

だが、勝利への道は、決して平坦ではなかった。マリーンズの先発「ボス」は冷静に立ち直り、ファイターズ打線を次々と封じ込めていった。結局ファイターズの得点はこの一点だけだった。
 

北山も懸命に投げ抜いた。六回を終えて、許した得点はわずか一点。しかし同点で迎えた七回、その均衡はわずかなほころびから崩れた。
 

一死後、振り逃げで出塁を許し、さらに北山自身の二塁への悪送球が重なって、一、三塁の危機を招いた。そして、マリーンズはスクイズを成功させた。流れは静かに、しかし確実にマリーンズ側へ傾いていった。
 

結局、最後までファイターズ打線は、マリーンズの豊富なブルペン投手たちを前に沈黙を破れず、悔しさの残る敗戦となった。「まあ、こういう日もあるよね」と、私は妻と顔を見合わせ、小さな笑みを交わした。
 

球場をあとにしながら、再び黒縁メガネの男性とすれ違った。「北山、惜しかったですね」と彼は言った。「でも、ミスは誰にでもあります。また明日、応援しましょう」その声に、私たちも静かにうなずいた。
 

バス乗り場へ向かう道すがら、夜風は鋭く頬を刺した。吐く息は白く揺れ、足元の影さえ震えていた。春とは名ばかり、北国の夜はまだ冬の名残を色濃く宿していた。ポケットに手を押し込みながらふと見上げると、街路樹の梢に並んだ桜の蕾は、固く閉じたままだった。咲き誇るには、もう少し時間が必要なのだろう。試合の余韻と、まだ訪れぬ春の気配を胸に抱えながら、私たちは静かにバスを待った。